老子の宇宙観

The World of Lao-tzu and Tao

第1章解釈のポイント

《-BACK

NEXT-》

●無の妙を観る

故常無欲以観其妙

「故に、常に無を欲し以って其の妙を観る」

ここも従来の読み下しとは異なります。
多くの場合、「故に、常に無欲にして、以って其の妙を観る」と読み下します。
「無を欲し…」。
かたや、「無欲にして…」。
これでは大きく意味が異なってきます。
別の書では、「故に、常に無は以って其の妙を観さんと欲す」と読み下しています。
「無は…」が主語です。
『老子』第1章、その最初にもかかわらず、誰がといった主語もなく、いきなり「無欲にして」は、果たして誰に言っているのでしょうか?
また老子は、壮大な第1章「天地生成論」の中で、いきなり「無欲にして…」と誰に対してか分からないことを述べるでしょうか?
「無は天地の始まりの名」または「無は、天地の始まりを、名す」と定義した直後の一文なのです。
ありえません。
下の「同出而異名」からしてもありえません。
老子は「無を為す」ことや、「欲無くして民自ずから樸なり」と治世を説きます。
しかし、第1章は、「天地生成論」に触れ、全体の定義をなす部分です。
そこに脈略もなく、主語もなく、「無欲にして」はありえません。
よって、「常に無を欲すれば、天地の始まり、その妙を観るようになる」という意味でこそ、前後の脈絡が通じます。

●有の徼を観る

常有欲以観其徼

「常に有を欲し以って其の徼を観る」

ここも多くの場合は、「常に有欲にして、以って其の徼(きょう)を観る」と読み下されます。
「欲有りて其の徼を観る」と読み替えても同様です。
ヘンな言い回しです。ありえません。
ここで「有欲」を述べることはありえません。
「有を欲さば、以って其の徼を観る」が正解です。
ちなみに「徼(きょう)」とは、目に見える現象面、事の結末を意味します。
「有」は万物の母なので、「徼」は現われた万物世界、その有り様や結末です。
老子は、「妙」と「徼」とを対比させつつ、「無」と「有」を欲した場合の違いを君子候王に説いています。
なぜでしょうか?
「無」と「有」は、天地万物世界の根源です。
「妙」が法則的なものだとすれば、「徼」はその結果として現れたものです。
「無」の働きが「妙」、つまり見えない「法則」です。
「有」の働きが「徼」、つまりこの世界の現実的な「結果」です。
それゆえ「無(法則)」にあれば、自ずから治世が「有(結果)」として成るからです。
もし、君子候王が「有」にあれば、一般庶民と同様に、白だ黒だと事の結末に一喜一憂したり、右往左往して、大局を見失いかねません。
君子候王は、常に「無」にあって、治めずして治めるべし、というのが老子の思想です。
庶民のように「徼(結果)」の些細なことにこだわってはいけないのです。
それゆえ「無を欲し、その妙を観よ」と述べたのです。
蛇足ながら「有欲」という言葉はありません。
「無欲」の反対は「欲」です。
単に語調を整えるためだけに、「有欲」と使うほど、老子は無能でも、また文才がないのでもありません。

One-Point ◆ 第5章に「天地不仁」「聖人不仁」とあります。そのまま、天地は仁ならず、聖人(たる君子候王)は仁ならず、と読み下します。TOPはときに「非情」に見える決断が必要です。かつて「人一人の命は地球よりも重い」と迷言を吐き、テロリストに保釈金を払った、「仁」なる首相がいました。テロリストの活動を支援し、かえってより多数の人命を危うくするために、国家を治める聖人ではありません。これも白だ黒だと「徼(結果)」にこだわわったゆえです。

●解釈のポイント

此両者同出而異名

「此の両者は同出にして名を異にす」

この一文は重要です。
第1章「天地生成論」を解釈するポイントとなる一文です。
この読み下しは、誰であっても間違えようがありません。
「此の両者は、同出にして名を異にす」以外にないのです。
「此の両者」は、どれでしょうか?
「此の両者は同出にして…」といっています。
「無」を欲することによって「妙」を観、「有」を欲することによって「徼(きょう)」を観ます。
ゆえに、「妙」と「徼」は別々の出で、同出とはなりません。
同出は、「無」と「有」を指します。それしかありません
ここまで分かれば、重要なのは、次の一文、「名を異にす」です。
同出にして名が異なると記しています。
「名が異なる」というのは、「名」があるということにほかなりません。
「道(Tao)」にはもともと「名」がありません。
第32章に「道常無名」、道は常に名無しとあることからも分かります。
「名」は「名」そのものなので、「名を異にす」とはいえません。
結局、「無と有は、同出にして名を異にす」ということです。

●解釈のポイント

では、話は戻りますが、「無名天地之始」は、どう読み下すのが正しいのでしょうか?
「名無きは、天地の始まり」ですか?
それとも、「無は天地の始まりの名(無は、天地の始まりを、名す)」でしょうか?
すでに、「03.老子のフレームワーク」に書いたとおりです。
「無と名すは、天地の始まりのことである」、という意味です。
「無の名は…」で正解です。
「名無きは、天地の始まり」ではありえません。
それだと「無」の定義や意味が消えてしまいますし、「無」が「名」を失ってしまいます。
「無」という名は、天地の始まりを指すのである、で意味が通じます。
ただ、「名無きは、天地の始まり」と読み下したとしても、老子の教えと、矛盾はしません。
なぜなら、名も無き「道(Tao)」は、「無」の究極の根源だからです。
「名無き道(Tao)は、天地の始まり」ともいえます。
飛躍はあるものの、間違いとまでは言い切れないのです。
それゆえにこそ、逆に読み下しを間違える可能性が生じます。
しかし、老子がここで云わんとしたことは、
「無は天地の始まりの名、有は万物の母の名。この両者は同出にして名を異にす」
です。
なぜ、わざわざ「同出にして名を異にす」と記したのかというと、次から「同」の奥深い意味に言及するからです。

One-Point ◆ 上下2巻に『老子』が分けられたのも、各章に分けられたのも、後の世の人の便宜上です。それゆえ、第1章最後の「同」への言及は、第2章の内容に受け継がれていきます。第2章で述べる「有無相生」、無と有は相い生ず、それゆえ何々という説明は、聖人たるべき君子候王の治世の考えに、重要な意味を持ってきます。




《-BACK

NEXT-》

Copyright(C) 2011 - Seiji Mitoma All rights reserved.