宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
その6:補足「蘇我天皇」の諡号
− 虚構ながら真実を残す −

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「推古」「舒明」「皇極」の諡号が象わす蘇我「天皇」の栄枯

↑神璽と宝剣を身につけて壇ノ浦に入水する二位尼・平時子と安徳天皇

●第1稿 : 2013年 4月 9日アップ




《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

先回「その5:蘇我「天皇」政権の3代」は重要なので、補足しておきます。
「蘇我氏がアメノタリシヒコ? 天皇(大王)? そんなことはない」という方は、このページを読まれても、裏付けなので、あまり意味を見出せないかもしれません。
であっても古代日本は、蘇我大王家と正統な天皇家によって成り立ってきたのは事実です。

《 「蘇我天皇」の時代 》

まず、「その5:蘇我「天皇」政権の3代−激変7世紀の最大の虚構」の要旨を再掲しておきます。
「推古天皇」の御世は蘇我馬子(そがのうまこ)、「舒明天皇」は蘇我蝦夷(そがのえみし)、「皇極天皇」は蘇我入鹿(そがのいるか)の時代です。
「舒明」と「皇極」は架空の天皇なので、実際には蘇我氏が「天皇(大王)」だった時代です。
お疑いは分かりますが、史実です。
推古天皇の先代、崇峻天皇も、ほぼ蘇我馬子の傀儡(かいらい=操り人形)なので、都合4代の天皇、最低でも約60年間は蘇我天皇(大王)の時代でした。
しかし、実際は、それ以前にも蘇我大王家の時代はありました。
ポッと出の中臣氏(藤原氏)が吹っ飛ぶくらい、蘇我氏は古来から由緒ある大王家です。
ただし、『日本書紀』は徹底的に「蘇我大王家」の存在と事実を消し、別の人物を創作し、その業績としています。
もちろん「蘇我」という姓も当て字で、本当の名前は別にあります。
ちなみに、『古事記』では「宗賀」と記されています。
日本の宗家の一つです。
また、「馬子」「蝦夷」「入鹿」にしても、本当の名前を犬畜生同然の名前に差し替えたのは明白で、蘇我「天皇」三代への『日本書紀』の作為と、イメージダウンを意図したこと極まれりと読みとれます。
本来の蘇我大王家は、正統な天皇家と双璧を成し、いわば古代日本の2トップでした。
その蘇我本宗家を滅ぼして、幕末まで約1,000年間、細々ながらも続いた天智系の天皇家こそ、あえていえば異端の「天皇家」です。
第40代「天武天皇」の皇統は、第48代「称徳天皇」で途絶えます。
その後は天智天皇の孫で、老酔「光仁天皇」から天智系が復活します。
操りやすい天智系天皇を即位させることで、藤原氏(中臣氏)自らが「蘇我大王家」のようになることを目論んだためです。
ただし、天智系天皇は正統ではないために、「魚宮」の民族性と「水瓶宮」の国体を持つ日本の「運勢(天運)」を受けることができません。
結局、1185年、新たに日本を担って登場した武家政権(鎌倉幕府)によって、天皇と朝廷の立場は地に落ちてしまいます。

One-Point ◆ 藤原氏が専横のかぎりをつくした平安時代は、「平安」という年号とは裏腹に「祟り」の時代です。当たり前です。正統な天皇家ではないのに「天皇」になったり、その天皇をないがしろにして、「わが世の春」を謳歌すれば、宗教的精神性(霊性)を象わす「魚宮」でも、また和と対等(平等)を象わす「水瓶宮」でもなくなりますので、日本の「天運(波動)」つまり象意と合わなくなってしまうからです。


●朝廷政治から武家政権へ

平安時代、藤原道長は、一条天皇に長女彰子を、三条天皇には次女妍子を、それぞれ入内させます。
彰子が生んだ幼帝、後一条天皇に三女威子を入内させて、ついに摂政を手にします。
天皇に代わって藤原氏が完全に実権を握った時代です。
その平安末期、今度は平清盛の娘、徳子が生んだ幼帝、安徳天皇が即位し、かつての藤原氏と同じ立場に平家が立ちます。
しかし、山口県下関と福岡県門司の間の関門海峡は壇ノ浦で、源義経に滅ぼされ、朝廷政治は幕を閉じます。
最後は、権力に翻弄された天智系天皇でした。
安徳天皇の祖母で平清盛の妻、二位尼は、三種の神器ともども幼い安徳を抱き、壇ノ浦の海に入水します。
こうして政権は以後、約700年間武士が握ることになります。

《 異端の「天皇家」の命運 》

もう少し詳しく書いておきます。
宝瓶宮占星学からみて、「天皇」というのは、「日本は何座宮?」に書いたように、日本が持つ「魚宮」の民族性と「水瓶宮」の国体を統合した「象徴」です。
世俗の「権力者」ではなく、魚宮に通じる大自然の「祭祀」を行なう祭祀者であると同時に、水瓶宮に通じる対等な「和」の象徴、つまり日本という「統一連合国家」また「複合民族国家」を平和裏に維持する象徴的な存在です。
そのため天皇がいなければ、運勢的にみて、日本の和は次第に乱れていきます。
正統な天皇であれば、意識せずともそのことを悟り、そのような精神を自ずとお持ちになられます。
天武天皇然り、今上天皇然りです。
しかし、数々のライバルを殺害して、天皇の立場を「権力」と考えて手に入れてきた中大兄こと天智天皇は異なります。
その中大兄とコンビを組んで、政権中枢に食い込み、あわよくば自らが「天皇」に代わろうとした中臣鎌足にはじまる藤原氏も同様です。
藤原氏(中臣氏)は、日本古来の「かんながらの道」に基づく正統な天皇の「祭祀」ではなく、どこからか模倣した「中臣神道」を立てて、日本を治めようとしましたが、効力(霊力)があるはずもなく、日本の「天運」も働きません。
平安時代末期、藤原氏にとって代わろうとした平家一門も同様です。
逆に、自ら滅びていかざるをえない運命になります。
日本が持つ宇宙の波動(天運)と共鳴しないために、何とも仕方がありません。
結局、天智系、藤原系、平家と、三代にわたって「異端」が続くにおよんで、ついに「天運」はつきてしまいます。
その座を武家政権にゆずらざるをえなくなったのです。
そこに宇宙の「根本法則(数理法則)」の働きがあります。

One-Point ◆ このとき平家は、幼帝「安徳天皇」を抱き、「三種の神器」とともに九州と本州の間の「壇ノ浦」の海に身を投げます。「三種の神器」のうち「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」のみ、ついに見つかりませんでした。一説では、武家が政権をとったために「剣」は必要なくなったとされますが、それも一理あるにしても、むしろ、「天叢雲剣」は、天智系天皇家への「祟り」がついに念願かなって、ふるさとの「海」に帰っていったことになります。
※「三種の神器」については、重要な意味を持ちますので、後日、またご紹介いたします。

《 「推古天皇」の意味 》

倭王アメノタリシヒコこと蘇我馬子は、6世紀末に九州「倭国」を治めます。
6世紀最後の600年、「倭国を畿内大和国にゆずる」旨を隋王に告げたのち、推古天皇を「和」の象徴に立てて畿内「大和国」に移ります。
この間、「冠位12階」や「17条憲法(原案)」を制定し、統一国家づくりを行なっています。
では、初めての女性天皇となった「推古天皇」の実態とは、どのようなものだったのでしょうか。
『日本書紀』に記された推古天皇の和風諡号は、「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)」といいます。
「豊」は、現在の大分県から福岡県にかけての地名です。
「御」は、尊称なので除きます。
すると残ったのは「食炊屋姫」です。これでは、「飯炊き屋の娘」としか読めません。
とても天皇の諡号ではないのです。
事実、推古天皇は31歳のとき、蘇我馬子によって立てられた傀儡です。
それは「推古」という諡号からも読みとれます。
諡号には、文字によって「上・中・下」のランクがあります。
天皇には通常「上」ランクの「美諡」に分類される文字が用いられます。
「神」「聖」「文」「武」などがその一例です。
「推」と「古」は、どのランクにも属さない文字で、いわば諡号外です。
その意味はといえば、「古(いにしえ)に推(お)す」です。
どの古(いにしえ)かといえば、邪馬台国の2代め、13歳でお飾りの女王に祭り上げられ、九州から畿内に連れてこられた「台与(とよ)」です。

One-Point ◆ いずれ書くと思いますが、「天照大神」とともに神宮(伊勢)に祀られる「豊受大神」が「台与(とよ)」です。台与は、応神天皇こと武内宿禰(たけしのうちのすくね)の東征にお供させられます。そのような過去の史実をふまえて、蘇我馬子の傀儡となった女性ゆえ、「豊御食炊屋姫」また「推古天皇」と諡号されています。


●漢風諡号の文字ランク

【上(美諡)】
神聖賢文武成康獻懿元章釐景宣明昭正敬恭荘粛穆戴翼襄烈桓威勇毅克壮圉魏安定簡貞節白匡質靖真順思考顕和元高光大英睿博憲堅孝忠恵徳仁智慎礼義周敏信達寛理凱清欽益良度類基慈斉深温譲密厚純勤謙友廣淑霊栄比舒賁逸退偲宜哲察通儀経庇協端休悦容確紹 世果

【中(平諡)】
懐悼愍哀隠幽沖夷懼息

【下(悪諡)】
野躁伐荒蕩戻刺虚戻墨亢千専苛介暴虐凶慢毒悪残頑昏驕惑溺僞詐詭奸邪慝危覆敗費

《 「皇極天皇」の意味 》

その蘇我大王家は、蘇我入鹿(そがのいるか)の殺害によって滅びます。
ここに有史以来続いた蘇我本宗家は滅亡します。
その入鹿が実質の「天皇」だったことを糊塗するために創作されたのが「皇極天皇」です。
「皇極天皇」が架空なのは、『日本書紀』が記した和風諡号から分かります。
「天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)」というのは、先回もお伝えしたとおり「足(たらし)」の一字によって付け足された天皇であることが分かります。
また「皇極」という諡号も異常です。
「皇極」といえば、何か素晴しい諡号のような印象を受けます。
それが違うのです。
「皇」も「極」も、「上」ランクの美諡の文字ではありません。
それどころか、「極」というのは「極(きわ)まる」という意味で、「頂点」を表わすと同時に、逆に「極まる=先がない」、すなわち「終わり」という意味を持ちます。
「月極駐車場」の「極」と同じです。
結局、「皇極天皇」というのは、「最後の天皇」という意味なのです。
つまり、蘇我大王家「最後の天皇」、すなわち蘇我入鹿を指す諡号です。
そのため、皇極の重祚(ちょうそ)とされる斉明天皇は別人です。
蘇我入鹿は、中大兄と中臣鎌足によって6月12日に殺されます。
その翌日の『日本書紀』の記述もヘンです。

「皇極天皇紀」から抜粋
「13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。」

前日に入鹿が殺され、翌日、父の蝦夷も殺され、その前にすべてを焼いたというのです。
焼いたのなら、何が焼かれたのか、詳しくは分からないはずです。
わざわざ「すべての」とつけること自体がおかしいし、「焼かれる国記を取り出して」といのもおかしいのです。
焼却せざるをえないほど重要な「機密書類」や「珍宝」の処分を、船史恵尺一人に任せたとでもいうのでしょうか。
実際は、入鹿殺害の直後に蘇我蝦夷を殺し、相前後して火を放つと同時に、天皇記・国記・珍宝を持ち出したものです。
「すべて…焼いた」として「機密」にせざるをえなかったのは、中大兄と中臣氏(藤原氏)のほうで、「天皇記」には蘇我大王家の歴史が記されていたからです。

One-Point ◆ 中大兄と中臣鎌足は、「天皇記」と「国記」によって、蘇我大王家の過去を知ります。それゆえ蘇我本宗家を滅ぼした正当性を図るために、『日本書紀』は継体天皇以前の蘇我大王家の過去を消し去り、名前を変え、架空の人物を創作して、歴史を無理やりつないできました。そのため多くの矛盾やナゾが残る記述となったのです。ちなみに、「天皇紀」は『日本書紀』が上奏された8世紀までは残っていたようです。桓武天皇の代にすべて焼却されたものでしょう。


《 「舒明天皇」の矛盾 》

順番は前後しますが、推古天皇の次、皇極天皇の前の「舒明天皇」について、触れておきます。
舒明は、蘇我蝦夷が実質の天皇だったことを糊塗するために創られた架空の天皇です。
ただし、「舒」も「明」も、「上」ランクの美諡に属する文字です。
相応の敬意が払われた諡号であることが分かります。
その和風諡号「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」は、「足(たらし)」がつくために付け足された架空の天皇であることが分かります。
他にも、おかしな表記があります。
『日本書紀』の次の一文をご覧ください。

「舒明天皇紀」から抜粋
「息長足日広額天皇は、敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の子である。」
「推古天皇が病臥なさった日に、田村皇子に詔して…」
「元年春1月4日、大臣と群卿は、皇位の璽印を田村皇子にたてまつった。(中略) そこでその日、皇位におつきになった。」
「2年春1月12日、宝皇女を立てて皇后とした。」

この記述から、一般的に田村皇子が舒明天皇として即位したと理解されています。
田村皇子が本当に「彦人大兄皇子」の子であれば、田村王であって、田村皇子ではないのです。
彦人大兄皇子は、天皇に即位していないので、その子は「王」です。
同様に、宝皇女も「皇女」というからには、天皇の娘でなければなりません。
ところが、舒明天皇の皇后とされる皇極天皇は、『日本書紀』では茅渟王の娘であって、天皇の娘ではありません。
親子ならず夫婦の関係までもが、架空であることを示しています。
第一、斉明天皇紀の冒頭をみても分かるように、子連れの出戻りで、わざわざ舒明天皇に嫁ぐということは、一般はともかく、後継天皇でもめますので理解不能です。
『日本書紀』は、編集目的という「大義」ゆえに、大きなウソはつきますが、皇子ではなかった「中大兄」を決して「中大兄皇子」と表記することがなかったように、行間から史実が読めるよう、案外と律儀に真実の一端を記しています。
続けて次の記事もご覧ください。

「皇極天皇紀」から抜粋
「9月6日、舒明天皇を押坂陵に移葬した。――ある本には舒明天皇を呼んで高市天皇と申し上げたとある。」

以上をまとめると、まず、田村皇子というのは、敏達、用明、崇峻、さらには推古天皇のいずれかの皇子であって、即位していたことになります。
ただし、舒明天皇というのは、蘇我蝦夷が「天皇(大王)」だったことを隠すために立てられた架空の天皇で、蝦夷は「高市(たけち)天皇」と呼ばれていたことになります。
「高市(たけち)」は、九州「倭国」系の諡号を表わす「武」=「たけ、たけし」と読み替えられますので、蘇我氏を表わすことで間違いなさそうです。

One-Point ◆ 結局、押坂陵は、蘇我蝦夷の陵墓になります。一方、そのカゲで即位していた田村皇子は、敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子(またの名は麻呂古皇子)か、用命天皇の子、麻呂子皇子の可能性が高いでしょう。「古」と「子」の違いはありますが、同じ「まろこ」で、母も「広姫」と「広子」です。こういう書き方をするときは、何かを暗喩しているときで「その5:蘇我「天皇」政権の3代」に掲載した敏達から天智・天武に至る皇統図で、世代が1〜2世代増えていて辻褄が合わないのも、創作された人物が紛れ込んでいるためです。


●ご参考「皇統図」

※画像をクリックで別画面で開きます。

《 孝徳天皇と「遷都」 》

「皇極天皇」こと入鹿が殺され、蘇我大王家が滅びたあと、孝徳天皇が即位します。
「大化の改新」を推し進めた実在の天皇です。
ただし、茅渟王の子「軽皇子」が孝徳天皇として即位したと記されています。
軽皇子というからには、やはり天皇の子でなければならず、同母姉とされる宝皇女と同様に天皇に即位していない茅渟王の子とするには疑問が残ります。
推測で申し訳ありませんが、推古天皇の後に密かに即位していた田村皇子(天皇)の皇子であれば道理がとおることになります。
左図の皇統において「押坂彦人大兄皇子」の世代が実在の田村皇子で、「茅渟王」の世代が孝徳天皇です。
つまり、押坂彦人大兄皇子は、皇統をつなぐために創作された人物で、舒明と皇極もこれまで書いてきたように架空です。
推古天皇が崩御した後、畿内「大和国」では蘇我蝦夷が天皇(大王)に就き、九州「倭国」では敏達天皇の子、田村皇子が天皇に即位し、その子の軽皇子が蘇我氏滅亡後、孝徳天皇として即位したという図式が成り立ちます。
「田村皇子」が、舒明天皇紀に突然出てきて即位するのは、九州「倭国」を徹底的に隠した『日本書紀』の事情からです。
父を茅渟王にすれば、天皇ではないので、田村皇子の出生を『日本書紀』に記す必要がありません。
それでスジはとおりますが、しかし、それだと「皇子」はおかしいという矛盾が生じ、結局のところ、素性が隠されているということです。
田村皇子の出自は、「舒明天皇紀」の冒頭に「敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の子である」という記述のみです。
各天皇紀の冒頭に記されたこの「皇統」こそが、「万世一系」の大義名分のために捏造されたものなので、頭から信じ込んでしまうと、史実が読めなくなります。
『日本書紀』の大きなウソの第一です。
孝徳天皇紀には、大化元年「冬12月9日、天皇は都を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に移された」と記され、その6年後、「(白雉)2年12月の晦日、新宮においでになった。この宮を名づけて難波長柄豊碕宮という」と記されています。
九州「倭国」から移り住んだのがこのときで、翌3年「秋9月、豊碕宮の造営は終わった」と記録しています。
翌4年、皇太子の中大兄は、孝徳天皇の后、間人皇后と皇弟を連れ、さらには公卿太夫・百官の人々も従って、倭の都「倭の飛鳥河辺行宮」に移ったことが記されています。
ここでいう「皇弟」は、孝明天皇の御世なので、その弟です。
これを「大海人皇子」と書き換えると、大海人皇子は軽皇子(孝明天皇)の弟ということになります。
ちなみに、「天智天皇紀」には、「大海人皇子」という表記を避けて「東宮大皇弟」と記され、一般に「大海人皇子」と解釈されます。
その場合、東宮大皇弟は「先の天皇の弟」という意味なので、斉明天皇の弟になります。
要は、「皇弟」や「東宮大皇弟」を「大海人皇子」と読み替えるかどうかで、はっきりと書いていないところに、天武天皇こと大海人皇子の正体を隠したい『日本書紀』の意図があります。
それは逆に、天武天皇は九州「倭国」の出自だと言っているのです。
いずれにしても、『日本書紀』の記述によれば、中大兄は皇太子でありながら、天皇を差し置いて都を九州「倭国」に遷しています。

One-Point ◆ その理由は、天智系天皇と藤原氏側の書きたくない理由ゆえ、『日本書紀』に記されていません。事情は、中大兄が倭国に移った白雉4年、「百済本紀」の義慈王13年8月には、倭国と通好すとあり、百済は当時、642年から新羅と戦争状態にありましたので、中大兄と中臣鎌足が、事実上の「軍事同盟」を百済と結んだゆえです。その結果、百済復興に向けた663年の白村江の戦いで、中大兄と中臣鎌足の倭国軍は大敗北。日本は国家存亡の危機に立たされます。そんな大事を招いた遷都の理由を、天智系天皇と藤原氏側が『日本書紀』に記させるはずがありません。舎人親王もそれを了承し、代わりに、遷都に際し、中臣鎌足を「鼠」と暗喩して動いたことを『日本書紀』に残しています。
※次回以降は、いよいよ大海人皇子の正体に迫る壮大な史実にふれていきます。



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