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連載 占星学と解く「日本成立史」
その7:安曇族と天武天皇
− 激変7世紀を読み解く-4 −

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美濃の将軍と尾張そして倭の勇者と大分君の海人連合軍

↑手前は志賀島、奥が博多湾と能古島

●第1稿 : 2013年 4月15日アップ




《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

ここでは、7世紀「日本成立」の主人公「天武(てんむ)天皇」の出自をお届けいたします。
『日本書紀』が隠した「天武天皇」こと「大海人皇子(おおあまのおうじ)」の正体は、はるか昔「神代紀」の時代にさかのぼって解き明かされます。

《 壬申の乱の趨勢 》

蘇我大王家は、乙巳の変で645年に滅びます。
天皇家とともに日本を築いてきたツートップの一角の滅亡です。
その後、7世紀後半の歴史の主人公は、蘇我大王家を滅ぼした中大兄こと天智(てんじ)天皇に移っていきます。
皇子ではなかった中大兄が白村江の戦いで大敗北し、日本を国家存亡の危機に陥れながらも、天皇に即位できたのは、ひとえに後の「天武天皇」こと大海人皇子のバックアップがあったからです。
ご納得できない方も多いと思いますので、史実から明らかにしておきます。
『日本書紀』では、中大兄と大海人皇子は兄弟として記されていますが、ありえません。
拠って立つ地盤が違いすぎます。
中大兄こと「天智天皇」の地盤は、せいぜい畿内「大和国」とその近辺です。
婚姻関係からも歴史が浅いことが分かります。
一方、大海人皇子こと「天武天皇」の地盤は広範囲にわたっています。
九州「倭国」をはじめ、現在の岡山にあたる「吉備国」、中部地方の「美濃」「尾張」など広範で、誰もが認める歴史や由緒があります。
信じられなくても仕方がありません。
『日本書紀』は「天武天皇」の年齢も素性も、出自が分かることはすべて消したからです。
しかし、天武天皇の子「舎人親王」は、『日本書紀』編纂の総裁を務めています。
ちゃんと読めば分かるように書いているのです。

「天武天皇紀-上」から抜粋
1、
「近江の朝廷では、大皇弟(大海人皇子)が東国に赴かれたことを聞いて、群臣はことごとく恐れをなし、京の内は騒がしかった。ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れようとした。」
2、
「筑紫大宰栗隈王と、吉備国守当摩公広嶋の二人は、元から大皇弟(大海人皇子)についていた。」
3、
「ここに一人の勇士があった。大分君稚臣(おきだのきみわかみ)という。(中略)射られながらも敵陣に突入した。近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止められなかった。」

大海人皇子と、天智天皇の子の大友皇子(追諡:弘文天皇)が戦った壬申の乱(672年)のお話です。
結局、大分君稚臣の瀬田橋の活躍によって、大海人皇子側の勝利が確定します。

One-Point ◆ 上述の引用文から分かるように、「筑紫(倭国)」と「吉備国」は、もともと大海人皇子側です。加えて東国の「美濃国」と「尾張国(続日本書紀)」までもが完全に大海人皇子側に味方するに及んでは、ほぼ勝敗は決したようなものです。そのため近江朝の大友皇子側の群臣は、ことごとく恐れをなして、逃げようとしたのです。


●「不破の道」を封鎖せよ!

壬申の乱が勃発したとき、吉野にいた大海人皇子は、真っ先に「不破の道をふさげ!」と命じます。
なかなかの戦略家です。
この成功によって、がぜん有利になりました。
なぜなら、近江朝側は美濃を攻めることも、味方に引き入れることもできなくなり、大海人皇子は、逆に東国の領地「美濃」を守ると同時に、拠点を置くことができたからです。
不破の道は、現在でも、東海道新幹線、東海道本線、中山道、関ケ原バイパス、名神高速道路が、束のように集中するところで、ここを通るしかない山あいの要衝になっています。
後年、天武天皇はここに「不破関」を設置しました。




●「国見」のあった国東半島

瀬戸内海の西端に位置する大分県の「国東半島」は、海を制する海人族にとっては最重要地です。
九州「倭国」と畿内「大和国」を結ぶ海の玄関というだけではありません。
北は関門海峡を通り、周防灘へ入る船、南は日向灘から豊後水道を通り、内海へ入る船を見張れる要衝の地なのです。
つまり「国見」があった地で、最も信頼できる精鋭を配したのは当然です。
この内陸部にある安心院(あじむ)は、安曇(あずみ)がなまったものだという説があります。

《 倭国の海の要衝 》

「持統天皇紀」には、もっとハッキリと書いています。
ご存じのように持統天皇は、天智天皇の娘ながら天武天皇に嫁いだ皇后です。

「持統天皇紀」から抜粋
「(壬申の乱)秋7月、美濃の将軍たちと、倭の勇者らの連合は、大友皇子を誅して、首級を持ち不破宮に至った。」

「美濃」の将軍たちと「倭」の勇者らが大海人皇子側なのです。
「倭の勇者」の中には、大分君稚臣と大分君恵尺(おきだのきみえさか)がいます。
大分君恵尺の病気が重くなったとき、天武天皇は壬申の乱の勲功を誉めて、「お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう」とまで言っています。
一方、「兵衛」の大分君稚見(稚臣:わかみ)には、その死に際し「外小錦上(とのしょうきんじょう)」の位を贈っています。
大分君(大分の王)というのは天武にとって、特別な存在です。
天武天皇が崩御された際、殯(もがり)の記述からもそれらが分かります。

「天武天皇紀-下」から抜粋
「次に直大参当麻真人国見(たぎまのまひとくにみ)が、左右の兵衛のことをしのびごとした。」
「次に大隅阿多の隼人および倭河内の馬飼部造が、それぞれしのびごとした。」

直大参「当麻真人国見」については、あまり『日本書紀』には記されていません。
しかし、「兵衛」のことをしのんだことから出自が分かります。
天武天皇の「兵衛」は、壬申の乱で勲功を立てた大分君稚見(稚臣)です。
2006年に姫島村を除く東国東郡が大分県国東市に合併するまで、そこには「国見」がありました。町役場は大字伊美です。
「兵衛」というのは、宮門の守備や行幸の供奉を務めるいわば近衛兵です。
よほど信頼できる近親の者しか任命しません。
大分君稚見(稚臣)はその「兵衛」だった人物で、直大参の「当麻真人国見」が「兵衛」のことをしのんでいることから、後任か関係者です。
また、大隅阿多の隼人や、倭河内の馬飼部造といった、俗にいう一般人がしのびごとを述べています。
居並ぶそうそうたる群臣に交って、彼らが最後にしのびごとを述べたのは、身近な関係者だからに他なりません。
ちなみに、大隅阿多の隼人というのは、鹿児島の大住隼人と薩摩隼人のことです。
倭河内の馬飼部造というのは、島原湾にある現在の熊本市西区河内町あたりです。
一見、離れていてあまり関係がないようにみえますが、海人(あま)族にとっては、博多湾と並ぶ九州の拠点です

One-Point ◆ 現在の大分県国東市、かつての東国東郡国見町は、国東(くにさき)半島の東端にあり、北は周防灘、東は瀬戸内海、南は日向灘をのぞむ、いわば海人族にとっては要衝の地にあたります。国東半島の根っこには天武系天皇と縁が深い宇佐神宮があります。国の東と書いて「くにさき」と読むのも、西側に「国」すなわち古の「倭国」があったことを意味します。


●つくられた宇佐神宮の「祭神」

右本文の一例を挙げておきます。
九州北部には「神功皇后」の伝説が各地に残っています。
また、宇佐神宮の祭神は、「応神天皇、比売大神、神功皇后」とされます。
これらは『日本書紀』以降に作られたものです。
「宇佐神宮」自体が、『日本書紀』が奏上された5年後の725年に、今の場所に遷座されています。
「神功皇后」が祭神とされるようになったのも、平安時代の823年のこと。
もともとの祭神は、「比売大神」(と「八幡大神」)でした。
平安時代になって、八幡大神は「応神天皇」に結び付けられ、「神功皇后」も併せて祭るようになったものです。
『日本書紀』の影響、恐るべし。
これと同様で、「神宮皇后」伝説も、後の世に作られたものです。

《 『日本書紀』の影響 》

さて、大海人皇子の本当の出自を知るには、ここで歴史を大きくさかのぼらなければなりません。
『日本書紀』の「神代紀」には、日本成立の原点が記されています。
ただし、注意しなければならないことがあります。
「神代紀」や「神武天皇紀」には、7世紀のエピソードが盛り込まれていることです。
『日本書紀』を編纂した人々は、古代の歴史の骨格は分かっていましたが、具体的なことが分かりません。
それを実際らしくみせるために、7世紀のエピソードを脚色して流用しています。
そういったエピソードを差し引いて読まなければ、古代史の事実が見えてきません。
ついでに書いておきますと、日本各地に残る「伝説」や神社の「祭神」にも注意が必要です。
『日本書紀』が成立してのち、その登場人物やエピソードになぞらえた「伝説」や「祭神」に差し替えられているからです。
また、明治に王政復古してから造られた神社や伝説も数多くありますので、それらを『日本書紀』以前のものだと信じると、史実が見えなくなります。
さらについでに書けば、『古事記』についても同様のことがいえます。
『日本書紀』以前に『古事記』が記されたことは書き方などから間違いありません。
しかし、『日本書紀』完成後、「書紀」の内容に合わせて写し変えらた部分があります。
そんな、こんなを差し引いて「神代紀」を読まなければ、日本の原点は見えてきません。

One-Point ◆ 「欽明天皇紀」には、「古今を考え調べて、真実の姿に戻した。容易に分かりにくいものについては仮に一方を選び、別のものを注記した。他のところもこれと同じである」とあります。「欽明天皇紀」は「神代紀」よりも先に書かれたもので、これは編纂の姿勢を示したものです。「神代紀」の半分以上が「一書にいう」と注記で占められているのはこのためです。

《 海人族と「倭国」 》

まず、『日本書紀』とは関係なく、次の事実をご理解ください。
日本は、多くが海に面した細長い海洋国家です。
古代には鉄道はありません。道路も日本が統一されて安全になってのち初めて整備されます。
そのため古代においては、海運が主な交通手段です。
朝鮮半島に渡るにも、九州から四国、また本州や島々、全国各地の津々浦々のどこに行くにも、主要なものはすべて水路や海路によって行なわれました。
古代における「幹線」は、海と川なので、都はすべて古代の川辺にあります。
それは古代の畿内「大和国」も例外ではありません。
そこにおいては、航海術と造船技術を持った海人(あま)族が勢力を持ちます。
『日本書紀』には、次のように記されています。
伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が大八州国(日本)と天下の主者「大日靈貴(おおひるめのむち)」を生み終えたあとの「一書」の記述です。
伊奘諾尊は「黄泉の国」から戻り、筑紫(九州)で体をすすぎます。

「神代紀-上」から抜粋して要約
「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がいわれるのに、上の瀬はたいへん流れが速い、下の瀬はたいへん流れが弱いと、中の瀬ですすぎをされた。」

それによって生まれた神々が次の海人族です。

「底津少童命(そこわたつみのみこと)、中津少童命(なかわたつみのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)は、安曇連(あずみのむらじ)らがお祭りする神である。」
「底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつおのみこと)は、住吉大神である。」

少し謎解きをしておきます。
「上の瀬はたいへん流れが速い」というのは、九州と朝鮮半島の間の「玄界灘(げんかいなだ)」のことです。
「下の瀬はたいへん流れが弱い」というのは、瀬戸内海のことです。
「中の瀬ですすぎをされた」というのは、その中間、九州北岸や、九州(玄界灘)と本州(周防灘、瀬戸内海)の間の関門海峡近辺のことを指します。
事実、ここは「安曇(あずみ)族」や「住吉大神」ら海人族の本拠地でした。

One-Point ◆ 『日本書紀』は、九州「倭国」の存在には、決して触れません。「漢委奴国王」の「奴国(なこく、ぬこく)」の存在も、「親魏倭王」の卑弥呼の「倭国(女王国)」の存在も、7世紀に九州「倭国」が畿内「大和国」に国をゆずったために関係がないということです。蘇我大王家や天武天皇の一族も九州「倭国」に深くかかわっていたために、『日本書紀』は近畿「大和国」による万世一系を大義名分に、いっさい明らかにすることを避けました。


●安曇族、志賀島と博多湾

現在の埋め立てが進んだ博多湾の地図ですが、掲載しておきます。
古代はもっと陸地側に湾が入り込み、何本もの川が流れ込んでいました。
志賀島に至る細い部分が海の中道です。
その根っこには、香椎神宮があります。
博多湾の左岸は糸島半島で、「伊都国」が付近にあった場所です。

《 安曇族の本拠地 》

一書では、安曇族の神々と住吉大神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔鳴尊(すさのおのみこと)に先駆けて生まれています。
『日本書紀』も、彼ら海人族が先に勢力を持っていたことを理解していたのです。
では、海人族にとって、最も重要なものは何でしょうか。
船も重要ですが、まずは拠点となる天然の良港です。
時化(しけ)や台風から避けられる港がなければ、船は破損し沈んでしまいます。
また、船を造るにも拠点となる港は必要です。
その港は、ヤマ族や他国からの防衛に適した地形でなければなりません。
さらには、交通の要衝であることも重要です。
大陸や朝鮮半島に近く、かつ潮流ともかかわって、国内の津々浦々に進出できる場所がいいのです。
他にも、四方の海を見渡せる小高い丘がある岬や半島を備えた港がベストです。
そのような条件を満たせる場所が、「九州北岸」や「関門海峡の近辺」です。
1世紀にあった倭の奴国(なこく、ぬこく)もそうでした。
「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島(しかのしま)に隣接する博多湾は、海人族の拠点に最適の場所です。
志賀島は細い一本の道でほぼ陸地につながり、博多湾を抱きます。
ヤマ族が攻撃しようにも、この海の中道しかなく、海人族にとっては三方から防衛できます。
また、志賀島は小高い丘になっていますので、四方八方を見渡せるのです。
さらに、博多湾の入り口には、防人(さきもり)が置かれた能古島(のこのしま)があり、天然の防波堤や要塞の役割を果たしています。
この志賀島、博多湾が安曇族また住吉大神の本拠地だったのです。
安曇族は、宗像(むなかた)や関門海峡付近(洞海湾)をも拠点とし、住吉大神の海人族に分かれて双璧をなしていったようです。
「神代紀」において、安曇族の神々と住吉大神は、同時に一神ずつ各三柱が生まれていることから、同じ海人族で、比較的に近い関係であることが分かります。
ちなみに各三柱は、安曇族の神が先に生まれていますので、先の海人族であるため「大海人族」になり、元祖を意味する「海神(わたつみ)」になります。

One-Point ◆ 博多湾や宗像から対馬海流に乗って、日本海を上れば、出雲(島根)や敦賀(福井)、また越(福井、新潟、山形)に至ります。関門海峡から周防灘に入れば、瀬戸内海や太平洋沿岸地域にも進むことができます。ちなみに「奴国(なこく、ぬこく)」というのは、古代の福岡市は砂洲で、沼地だったために「沼の国(ぬこく)」というのを、中国が奴隷の「奴(ぬ)」の字を当てて表記したようです。福岡市内には、中心街を除いて現在も沼や池が案外と多く残っています。

《 天武天皇の出自 》

九州や日本沿岸には、海人族の拠点がいくつかあります。
そのすべてが天然の良港です。
現在とは多少、地形は変わっているものの、海人族の拠点となった地域を地図で示しておきます。


●「都」防衛の海の要衝と拠点

上の地図に示した拡大図以外に、○で示した九州北部の「博多湾」や「洞海湾」、また国東半島と「別府湾」、さらには、瀬戸内海が最も狭まった「吉備国」辺りも拠点となる場所です。
北九州の「洞海湾」は、「関門海峡」の通行を押さえ、大分の国東半島と「別府湾」は、「豊後水道」の通行を押さえ、それぞれ瀬戸内海への侵入を見張り、敵の侵入を防ぎます。
南九州の「志布志湾」は、太平洋沿岸を流れる黒潮の南方防衛の拠点で、中部の「伊勢湾」は太平洋沿岸の北方防衛の拠点です。
これで「都」の海の防衛は万全です。

日本海側は省きました。
九州の場合、北岸は上述した「博多湾」と「洞海湾」、東岸は国東半島と「別府湾」、西岸は「島原湾」、南岸は「鹿児島湾」と「志布志湾」です。
瀬戸内海は「吉備国」があった岡山県の玉野市辺りで、瀬戸内海が最も狭くなっている場所です。
太平洋沿岸は「三河湾」も含めた「伊勢湾」です。
これら海の要衝となる拠点の場所にご注目ください。
壬申の乱で大海人皇子側に味方したり、天武天皇に即位したのち崩御にあたって、しのびごとを奉った人々の地域です。
これらのことから、天武天皇は日本古来の海人族にかかわる出自であったことが分かります。
蘇我氏が畿内「大和国」に移り滅亡したあと、九州南部を含む「九州国」の大王(天皇)の皇子なのです。
『日本書紀』の記述を素直に読めば、孝明天皇の「皇弟」であり、天智天皇の「大皇弟」と記されています。
つまり、この記述から、大海人皇子は『日本書紀』には記されませんが、孝明天皇の「(異母)弟」であり、天智天皇の前の天皇「斉明天皇」とされた人物(孝明天皇の姉妹)の「弟」だったことが分かります。

One-Point ◆ 「大海人皇子」という名前も、「天武天皇」という漢風諡号も、また「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」という和風諡号も、正しく出自を意味しています。「武」は九州を出自とする人物(天皇)に付けられます。「渟(ぬ)」は水がとどまることで「沼」、「瀛(おき)」は「広い海」のことです。大海人と「大」がつくのは、古来からの海人族を意味します。大海人族(海神:わたつみ)は日本の原点、ヤマ族(天皇家)と婚姻関係を結びます。そういった由緒ある正統な一族の出自が天武天皇です。
※次回は「神代紀」の裏付けとともに、「三種の神器」を含めた「日本成立史」を明らかにします。



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