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連載 占星学と解く「日本成立史」
その5:蘇我「天皇」政権の3代
− 激変7世紀の最大の虚構 −

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蘇我氏の60年と「推古天皇」と架空の「舒明」と「皇極」

↑甘樫丘のたそがれ遠望

●第1稿 : 2013年 4月 3日アップ




《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

『日本書紀』が最も消したかったのが、蘇我一族の業績と存在です。
6世紀に天皇と共にあった大伴氏が失脚し、次いで物部氏が滅びます。そして崇峻天皇が弑逆されるにおよんで、蘇我馬子(そがのうまこ)がついに権力を完全に握ります。
その蘇我馬子こそが、厩戸皇子(うまやとのおうじ)こと「聖徳太子」の真の姿だったのは先回お伝えしたとおりです。

《 これまでのまとめ 》

簡単にまとめておきます。
詳しくは、先回の「その4:応神と初代「神武天皇」」をご高覧ください。
7世紀が始まる前年、600年のこと。
倭王アメノタリシヒコは、隋の高祖文帝に「わが倭国は、統一日本をつくるにあたり、畿内大和の弟国に国をゆずる」と宣言します。
中国の冊封体制から離れ「独立」するということです。
このように言えたのは、倭国を完全に掌握したからです。さらに、国家ビジョンを持っていたからです。
中国側にすれば、そんな不名誉なことは国史、『隋書』には残せません。
倭王が「日出ずればすなわち理務をとめ、わが弟に委ねんという」と、訳の分からないことを言ったことにしています。
それに対する文帝の答えは正直です。
「はなはだ義理なし」
これまで長い間、我ら中国の冊封体制による後ろ盾を受けて倭王となり、倭国を治めてきたのに、いまさら「やめた」というのは「義理」がないではないかということです。
しかし、アメノタリシヒコ大王は翌年、国譲りを実行します。
『日本書紀』には、次のように記されています。

『日本書紀』より抜粋
「(601年、推古)9年春2月、皇太子は初めて宮を斑鳩(いかるが)に建てられた。」

皇太子とは、厩戸皇子(うまやとのおうじ)こと「聖徳太子」です。
聖徳太子は、アメノタリシヒコ大王の業績を隠すためにつくられた架空の人物です。
その4年後の605年。

「(推古13年)冬10月、皇太子は斑鳩に移られた。」

九州「倭国」のアメノタリシヒコ大王が、畿内「大和国」の斑鳩に宮(都)を移したのがこのときです。
さらに2年後の607年、アメノタリシヒコは、再び隋王に書を送ります。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、つつがなきや」
『隋書』にはそう記されています。
「日」は昇りました。
それゆえ「日出ずる処の天子」です。

One-Point ◆ このアメノタリシヒコ大王が、蘇我馬子(そがのうまこ)だということは、お伝えしたとおりです。彼は、この600年〜607年の間に「冠位12階」を定め、「和をもって貴しとなす、逆らうことなきを旨とせよ」で始まる「17条憲法(原案)」を制定し、着々と統一へ向けた国づくりを進めます。倭国と大和国の統合にあたって、まず「和」を強調したのです。後に『日本書紀』の編纂にあたって「17条憲法」は、現在残っているように改訂されたようです。


●「斑鳩」移転のルート

アメノタリシヒコ大王は、どのようなルートで九州の「宮(都)」を斑鳩に移転したのでしょうか。
九州北部、朝倉の東、宇佐の西に、かつて「日子山」と呼ばれた英彦山(ひこさん)があります。
その北西部から、大分(だいぶ)八幡宮のある飯塚市を流れ、直方市を経て、北九州市の境を経て、玄界灘に流れ込む遠賀川(おんががわ)があります。
「おんが」は、三輪山に祀られる大神様(おんがさま)にも通じる川です。
そこから、関門海峡を経て周防灘に入り、瀬戸内海を経て、大阪湾から河内湖跡の古代水路を経て、大和斑鳩に至ります。
当時の斑鳩は、水路がそばにあったので、すべて水運での移設が可能です。
約4年をかけた大移転工事でした。

《 蘇我「天皇」の実態 》

お話は、少し遡ります。
崇峻天皇が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に弑逆(しいぎゃく、しぎゃく)されたのが、崇峻5年、592年の11月です。
翌月、推古天皇が即位します。
しかし、『日本書紀』には、次のように記されています。

「推古天皇紀」より抜粋
「(593年、推古元年)夏4月、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて、皇太子とされ、国政をすべて任せられた。」

当時、まだ17〜19歳の厩戸皇子こと聖徳太子に国政のすべて任せたというのです。
ありえませんよね。
聖徳太子なる人物は実在しなかったことが現在では明らかで、結局、先回「その4:応神と初代「神武天皇」」でお伝えしたように、これは「厩戸(うまやど=うまこ)皇子」こと蘇我馬子大臣に「国政をすべて任せられた」という意味です。
蘇我一族の業績をできるだけ隠したいのが『日本書紀』の編纂に関与した一方の天智系天皇や藤原氏です。
厩戸皇子こと聖徳太子を創作して、架空の人物の業績にしたものです。
つまり、上述の一文の意味は、大臣(おおおみ)であり、摂政(せっしょう)である厩戸皇子=蘇我馬子が、完全に国政を握り、実質上の「天皇」だったことを言い換えたものです。
推古天皇は完全なお飾りです。
実権はすべて蘇我馬子にありました。
ただし、馬子が、さすがに人物だったのは、自分が天皇になることなく、名目上とはいえ推古天皇を「和」の象徴として立てたことです。
その推古天皇が崩御すると、『日本書紀』は、次の天皇を誰にするか、そのいきさつを異常に詳しく書いています。
実務的に、簡潔に記録されていた文体が、急に小説タッチになってしまいます。
「ウソ」をつくときほど、人はよく喋るものです。

One-Point ◆ 『日本書紀』によると、推古34年5月に馬子が亡くなり、2年も経たない推古36年3月に推古天皇が崩御されます。この間の記述は、「3月より7月まで長雨が降った」、「狢(ムジナ)が人に化けて歌をうたった」、「ハエが集まって十丈ほどの高さになり、信濃坂を越えた」など、異常なことしか記されていません。こういう書き方をするときは、史実を誤魔化しているときです。実は推古天皇が先に崩御していたりします。


●蘇我氏3代の実質「天皇」

崇峻天皇(即位587-592年)-馬子
推古天皇(即位593-628年)-馬子
舒明天皇(即位629-641年)-蝦夷
皇極天皇(即位642-645年)-入鹿
最低でも、この約60年間は、蘇我王権の時代です。

《 蘇我蝦夷と蘇我入鹿 》

『日本書紀』では、推古天皇が崩御後、10か月ほどで「舒明天皇」が即位したことになっています。
ありえません。
その10か月間、「舒明天皇紀」の冒頭に記された後継者選びのエピソードは饒舌なこと、このうえありません。
もし、本当に「舒明天皇」が実在で、即位が事実なら実務的に記します。
たとえば、次のようにです。

「9月の葬礼後も皇位はまだ定まらなかった。
元年春1月、田村皇子はようやく皇位におつきになった。舒明天皇である。」

他の天皇紀同様、こんな書き方で充分です。
それが通常の『日本書紀』の記述です。
ところが「舒明天皇紀」の冒頭を実際にお読みになられれば分かると思いますが、舒明に決定するまでのエピソードは、異様に長く(数ページ分)、まるで見てきたかのような記述です。
長すぎて、引用してご紹介することもできません。
結局、その長さや、もっともらしさが、逆にウソであることを示しています。
では、史実はどうなのでしょうか。
他の幾多の記述から分かりますが、蘇我蝦夷(そがのえみし)が実質の「天皇」となって実権を引き継いでいます。
自ら「天皇」になってしまうところが、蝦夷は所詮、俗にいう「2代目」なのです。
蘇我馬子が名目上ながら、「推古天皇」を「和」の象徴として立てて、ワンクッション置いたようにすれば周囲も納得したのでしょうが、残念ながら蝦夷は、自ら「天皇」同然の立場に就いてしまいました。
『日本書紀』では、推古天皇のあと「舒明天皇」が即位したことになっていますが、これは、蘇我蝦夷が実際は「天皇」だったことを記すと、「万世一系」が崩れ「大和一国史」もあやふやになりますし、何よりも親たち中大兄と中臣鎌足が「天皇」を弑逆した逆賊になってしまうために、これらを糊塗する目的で付け足された架空の天皇です。
舒明天皇の次は皇極天皇が即位したことになっていますが、これも同様に蘇我蝦夷の子「蘇我入鹿(そがのいるか)」が実質「天皇」だったことを糊塗するために創られた架空の天皇です。
『日本書紀』には次のように記されています。

「皇極天皇紀」より抜粋
「蘇我臣蝦夷をそれまでどおり大臣とされた。大臣の子入鹿が自ら国政をとり、勢いは父よりも強かった。」

重要なのは、蘇我蝦夷がまだ生きていることです。
結局、入鹿も、俗にいう「3代目」に過ぎず、父親同様、「和」の象徴となる天皇を立てることなく、自ら「天皇」として振る舞ってしまいました。

One-Point ◆ 「皇極天皇紀」には、蘇我大臣が雨乞いをしたことが記されています。これは本来、祭祀を行なう天皇が行なう仕事です。他にも、蘇我氏が国中の豪族の私有民を使って、大陵(おおみさざき)と小陵(こみさざき)を作らせ、それぞれ蝦夷と入鹿の墓陵としたことが記録されています。「陵(みさざき)」というのは、天皇の陵墓のことなので、蘇我氏が実質上の「天皇」であったことを示した記録です。


●ほかにもおかしな舒明と皇極

下の皇統図をみていただければ分かるように、架空ながら夫婦である「舒明」と「皇極」は、皇極が一世代下の姪っ子にあたります。
また、皇極と斉明の重祚(ちょうそ)を事実とする場合、『日本書紀』によれば皇極(斉明)は、連れ子のある出戻り、すなわち再婚で舒明に嫁いでいることになります。
もし、舒明が実在の天皇であれば、出戻りを迎えることはありません。
また、斉明天皇が、皇極の重祚だということも、二人の言動が違いすぎますのでありえません。
この2点からも、舒明と皇極の実在は疑わしく、架空の天皇で間違いはありません。

《 舒明と皇極の創出 》

ここまで読まれて、歴史をご存じであるほど、「何、訳の分からないことを書いているんだ」と呆れられた方がいるかもしれません。
しかし、天智(てんじ)天皇と天武(てんむ)天皇が、実の兄弟ではなったことは、もはや歴史家がほぼ認めていることです。
であれば、天智(中大兄)と天武(大海人皇子)の両親とされる「舒明天皇」と「皇極天皇」にも、何らかの疑いが及んで当然です。
「舒明」と「皇極」は実在の天皇ではありません。
実質、「天皇」同然だった「蘇我蝦夷」と「蘇我入鹿」の替え玉です。
蘇我「天皇」の実在と、その功績を隠すため、また万世一系を演出するためにも、『日本書紀』が付け足した架空の天皇です。
その3:『日本書紀』かく語りき」に書いた編集手法を用いています。
まず、敏達天皇の皇子「押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこととのおおえのみこ)」を立て、架空の「舒明」と「皇極」をつなげます。
「舒明」と「皇極」を皇統にしたうえで、天智(中大兄)と天武(大海人皇子)の両親にして、二人を「兄弟」に仕立て上げます。
これで下記の皇統図のように、敏達、舒明、皇極、孝明、天智、天武と、万世一系になり、一石二鳥、三鳥のアラワザが完成です。

One-Point ◆ 「押坂彦人大兄皇子」以降、「天智天皇」と「天武天皇」に至る系図は、蘇我氏の系図と比べると、最低でも1〜2世代は増えていて、世代の辻褄が合いません。これでは、この間の人物の年齢を推定できないのは当然です。



One-Point ◆ 1世代のズレは実際に起こりますが、3世代もズレるのはありえません。「聖徳太子」はもちろん、敏達天皇と広姫の間に生まれた「押坂彦人大兄皇子」も実在が疑われます。その広姫の第3子の名前と、推古天皇の第1子の「またの名」が同じ「ウ(草冠に免)道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)」というのもヘンです。上の系図から「押坂彦人大兄皇子」「茅渟王」「舒明天皇」「皇極天皇」の4人を消すと、系図的にスッキリします。なぜなら、孝明天皇は「軽皇子(かるのみこ)」とされますが、茅渟王の子では皇子ではないために、直接、天皇につながらなければなりません。


《 他の架空の天皇 》

「舒明天皇」と「皇極天皇」が架空で、付け足された天皇だというのは、和風諡号からも明らかです。
ちなみに、第10代「崇神天皇」以降の架空の天皇をご紹介しておきます。

第12代「景行天皇」…大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)
第13代「成務天皇」…稚足彦(わかたらしひこ)
第14代「仲哀天皇」…足仲彦(たらしなかつひこ)
仲哀天皇の后「神功皇后」…気長足姫(おきながたらしひめ)
第34代「舒明天皇」…息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)
第35代「皇極天皇」…天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)

以上6名です。
「…」の右側が『日本書紀』に記された和風諡号です。
「えーっ、こんな天皇も!」という人物が中には、いると思います。
共通点は「足(たらし)」の文字がつくことです。
単純ですが、付け足された架空の天皇には「足(たらし)」がつきます。
天皇の諡号なのに「足(あし)」って、おかしいでしょ?
そのまま素直に読んで「足し算」の「足(た)す」です。
第12代「景行天皇」から第13代を経て第14代「仲哀天皇」までが架空なのは、第12代「景行天皇」から第15代「応神天皇」まで、4代にわたって仕えたとされる武内宿禰(たけのうちのすくね)の長寿の秘密が、これで明らかになり、納得できてしまいます。
300年も400年も長生きできる人物はいません。
これらは実在の倭国王、武内宿禰の正体を隠すためです。
そして、件(くだん)の「舒明天皇」と「皇極天皇」にも「足(たらし)」が付きます。
上述のとおり倭国王、蘇我「天皇」の実在を消すためです。

One-Point ◆ 結局、蘇我氏は、推古天皇「蘇我馬子」、舒明天皇「蘇我蝦夷」、皇極天皇「蘇我入鹿」と三代にわたって、実質「天皇」の立場に就きます。これは、蘇我馬子に大きな功績があったとしても、『日本書紀』の編纂目的と意図からは、受け入れることができない事実です。また、「馬子」「蝦夷」「入鹿」という名前自体が、いずれも蔑称で、中国が「卑弥呼」などと日本人に付けたやり方と同じです。

《 蘇我入鹿暗殺 》

もう少し、謎解きを続けてお伝えいたします。
畿内「大和国」にいた人々にとって、九州「倭国」から来たアメノタリシヒコ大王(蘇我馬子)の一族が、自分たち畿内「大和国」で権威を振るうことを、苦々しく思う人々がいたのは当然です。
それでもまだ、お飾りとはいえ、馬子が「推古天皇」を立てていた時代までは、何とか許容できたのです。
しかし、推古天皇が崩御してのち、蝦夷が実質の「天皇」に就くにあたって、雲行きがあやしくなってきます。
その蝦夷が、存命のまま「皇位」を入鹿に譲って、院政を敷き、世襲を図るにおよんで、ついに限界に達します。
ご存じ645年6月12日(旧暦)、乙巳の変(いっしのへん)です。
中大兄と中臣鎌足のコンビが、ついに蘇我入鹿を暗殺します。
場所は、現在の「蘇我入鹿首塚」のあたりです。
都を一望できる甘樫丘(あまかしのおか)にあった、蝦夷と入鹿の「上の宮門 (うえのみかど)」 と「谷の宮門 (はざまのみかど)」のすぐ近く、飛鳥寺のそばです。
『日本書紀』に記された乙巳の変の舞台は「大極殿」ですが、当時はまだ完成していなかったことが最近の調査で明らかになっています。
『日本書紀』では、入鹿が殺されると同時に、史上初めて皇極天皇が退位したとされますが、もともと皇極は入鹿「天皇」のことなので、うまいこと考えたものです。
ちなみに、中大兄は「皇子」ではなかったために、天皇にはなれなかったものの、論功行賞によって孝明天皇の皇太子に就きます。
蘇我本宗家を滅ぼした中大兄は、このときまでは高く評価されていたようです。
孝明天皇と皇太子は、大槻の木の下で盟約を交わします。

「孝徳天皇紀」より抜粋…中大兄の言葉
「帝道はただ一つである。それなのに末世道おとろえ君臣の秩序も失われてしまった。さいわい天はわが手をお借りになり暴虐の徒を誅滅した。
(中略) 今から後、君に二つの政(まつりごと)なく、臣下(中大兄)は朝(みかど)に二心を抱かない。…」

中大兄は、蝦夷や入鹿によって、君臣の秩序が失われていた、と述べているのです。
しかし、事実は、中大兄と中臣鎌足のほうが、そのような「君臣の秩序」に反した「暴虐の徒」かもしれません。

One-Point ◆ 高度な政治判断をして、九州「倭国」を畿内「大和国」にゆずり、統一日本の礎を築いたアメノタリシヒコ大王こと蘇我馬子でしたが、2代目蝦夷、3代目入鹿となると、やはり人物が小粒になります。「和」の象徴である天皇を排斥すれば、国情が不安定になり、自らも滅びていかざるをえません。それが魚宮の民族性と水瓶宮の国体を持つ日本の「天運」を委ねられた「天皇」という象徴的存在です。



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