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連載 邪馬台国は馬臺-その3
本編:「邪馬壱国」と「邪馬台国」
- 「魏志倭人伝」の地名人名 -

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三国鼎立の戦乱の支那大陸と九州「倭国」は隣国

↑ センセーショナルな書名

●リライト稿 : 2025年 6月28日アップ


かつて、『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)という書籍が刊行されました。

編集者がつけたタイトルだと著者は述べています。

「魏志倭人伝」には事実「邪馬壹国」(壱:いち)と記されており、「邪馬臺国」(台:たい)ではありません。

が、陳寿が「魏志倭人伝」で記した「邪馬壱国」もなかったため、支那(China:中国)の他の正史では「邪馬台国」と記されています。

真実は“邪馬台国”もなく、あったのは「馬臺」(またい)で、陳寿が東夷(東の野蛮人)の国だと蔑んで付けた「邪」を本気で信じて、「や・ま・と」と同調すると、そもそも論で間違います。

《 「馬臺」(馬台)と「臺與」(台与:とよ) 》

本当に「邪馬台国」はなかったのです。

陳寿が蔑んで記した“邪馬壹国”などもありませんでした。

陳寿がタネ本にした、散逸して今はない『魏略』に記されていたのは「馬臺」(馬台)であり「臺與」(台与:とよ)でした。

「魏志倭人伝」に記される「壹與」(壱与:いよ)はいません。

なのに表記を信じ、「壱与」は“伊予”(四国)だと勘違いして、邪馬台国は阿波四国にあったというのは、もはや妄想や牽強付会に類します。

One-Point ◆ ついでながら「丹朱は阿波でしかとれなかった」というのもウソです。「新説!?みのもんたの日本ミステリー」なるTV番組で、当時は徳島の高校教師(のちにおエライさん)が番組で“騙らされた”演出(やらせ)をいまだに信じている人がいるようです。



●かつて「Jタウンネット」が行なったアンケートでは、18.7ポイントの差で一般人は「九州説」を支持。



《 建中校尉「梯儁」(ていしゅん) 》

陳寿は「倭国」に来たことがなく、「魏志倭人伝」に記されるように魏王の使者、帯方太守の「弓遵」(きゅうじゅん)や建中校尉の「梯儁」(ていしゅん)らが来ています。

太守は郡の長官で役人で、建中校尉は兵士200人を指揮する軍の将校です。

そういった郡使が報告した記録を参考に陳寿は「魏志倭人伝」を著わします。

重要なのは「建中校尉」です。

今日でも大使館付きの武官がいるように、情報将校だと思いますが、郡使の一人として倭国を偵察し、倭国に至る「距離」や「方角」また「戸数」や「武器」の素材などを調べて報告しています。

One-Point ◆ 「戸数」は兵力(兵員数)に通じます。同時に食料調達の目安になります。「魏志倭人伝」に国邑(こくゆう)の戸数が記されるのは、単に国の規模を述べたものではなく、兵力と兵站を推し量るためです。



《 憑山負海 鎮馬臺 以建都 》

陳寿が「魏志倭人伝」を象わすさいに参考にした魚豢(ぎょかん)の『魏略』は、残念ながら散逸して残っていません。

しかし、『魏略』の逸文(引用文)は、福岡の太宰府天満宮に唯一、残っています。

唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

現在、わが国の国宝に指定されています。

では、『翰苑』に残される『魏略』の逸文で倭国に関する部分をみてみましょう。

●『翰苑』より抜粋: 『魏略』の逸文(1)

「 山につき、海を負い、馬台に鎮め、以って都を建てる」

【原文】「憑山負海 鎮馬臺 以建都」


One-Point ◆ 『翰苑』自体に記される注釈は次のようです。「後漢書にいわく、(中略) その大倭王は(邪馬)台で治める」【原文】「後漢書曰 (中略) 其大倭王治邦臺」。『魏略』の逸文では、卑弥呼の都を「馬臺」(馬台)と記していました。その「台」です。


《 二代目女王「台与」を復立 》

次の逸文をみてみましょう。

●『翰苑』より抜粋:『魏略』の逸文(2)

「台与は幼なく、まさに衆望にかなう」

【原文】「臺與幼歯方諧衆望」

○『翰苑』自体の注釈の抜粋

「名は卑弥呼という。死してさらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺。再び卑弥呼の宗女台与を立て十三歳を王となす。国中ついに定まる」

【原文】「名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女臺與 年十三爲王 國中遂定」


One-Point ◆ 逸文からは「馬臺」「邦臺」また「臺與」(台与)といったように、「臺」(台=たい:うてな)の字が使われています。陳寿が蔑んでつけた「邪」の字はどこにもありません。まして、皇帝の政庁などを表わす「臺」(台)をも嫌って「壹」(壱)に変えた“邪馬壹国”もありません。


《 のちの支那の史書は 》

のちの支那(China:中国)の史書にはどのように記されているのでしょうか。

●『後漢書』より抜粋…『魏志』以前を後の5世紀前半に記したもの。

「その大倭王は邪馬台国に居す」

【原文】「其大倭王居邪馬國」

●『梁書』より抜粋
…7世紀前半に記す。

「また南に水行十日陸行一月、邪馬台国に至る。すなわち倭王の居すところ」

【原文】「又南水行十日 陸行一月日 至邪馬國 即倭王所居」

「ふたたび卑弥呼の宗女台与を立て王となす」

【原文】「復立卑彌呼宗女與為王」

●『隋書』倭国伝より抜粋
…7世紀に記す。

「都を邪靡堆(やまたい)におく。『魏志』に言うところの邪馬台国なり」

【原文】「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬者也」


One-Point ◆ 「魏志倭人伝」を除いてすべて「邪馬臺国」(邪馬台国)また「臺與」(台与)と記されています。つまり「魏志倭人伝」が恣意的なのです。理由は何であれ、陳寿のみが原資料の『魏略』に記されていた「臺」(台)を「壹」(壱)に変えて「邪馬壹国」や「壹與」と記しました。






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