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連載 邪馬台国は馬臺-その2
本編:『晋書』第82巻列伝52
- 『陳寿伝』に記される人物像 -

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史家としては筆を曲げなかった司馬遷とは異なり

↑ 『三国志』を著わした陳寿

●リライト稿 : 2025年 7月 1日アップ


「魏志倭人伝」を著した「陳寿」(ちんじゅ)は、どんな人物でしょうか。

それがみえてくれば「魏志倭人伝」の記述がどこまで信用できるのかも相応ながら判断できます。

「邪馬台国」に関する記述を読むと、「陳寿は正しい人物だったので、魏志倭人伝の記述は信用できる」と書いておられる方がいました。

本当でしょうか。

民族性「魚宮」の善意から述べたものと考えますが、シビア”な視点からは、にわかには首肯できない一面があります。

「陳寿」については、『晋書』第82巻列伝52の一人として記録に残っています。

《 宦官の「黄皓」におもねず 》

「陳寿伝」で、いちばん最初に出てくるエピソードは次のようなものです。

劉邦、関羽、張飛の義兄弟や諸葛孔明で知られる『三国志』の一国「蜀」に陳寿がいたころのお話です。

●「陳寿伝」より抜粋(1)

「ときに宦官の黄皓(こうこう)が権勢をほしいままにしていた。大臣らはみな意を屈して黄皓に付き従っていた。
陳寿だけは、これにおもねることはなかった。このため、しばしば官位を下げられた。」


“善意”の日本人であれば、「陳寿は正義心にあふれた人だ」と思い込んでしまいそうです。

One-Point ◆ ですが、マンガやドラマではありません。陳寿は日本人でもないので、そう単純な理由からではないようです。それは別のエピソードからもみえてきます。



●横山光輝の漫画『三国志』は、史実を元に面白く脚色された『三国志演義』がベースに人気の全60巻。



《 「喪」の話と“ワイロ”の要求 》

●「陳寿伝」より抜粋(2)

「父の喪にあい病気になった。下女に“丸薬”をつくらせた。弔問の客がそれを目にしたために、郷里の人々に非難されることになった。(中略)

また、次のようにも言われている。
丁儀兄弟は、魏で名声があった。
陳寿はその子に、“千斛(千石)の米をいただけるなら、父君のために立派な伝を作りましょう”と言った。
丁兄弟の子らは与えなかったので、伝を立てなかった。」


要は“ワイロ”の要求です。

もし、陳寿が丁兄弟の子らから千斛の米をもらっていれば、「丁儀兄弟伝」は正しい“歴史記録”として残されたでしょうか。

このエピソードは丁兄弟の子らが拒否したので明らかになったと言えますが、広告掲載費と同じで、陳寿自身も言っているように“立派な伝を作りましょう”って、もはや「曲筆」が混じりかねません。

One-Point ◆ ワイロの常態化は古代支那(China:中国)の風習なので片目を瞑るしかありません。ただし「魏志倭人伝」は東夷伝なのであまり関係がないでしょう。とはいえ、そのような歴史スタンスの陳寿が著わした史書であることに変わりはありません。



《 “泣いて馬謖を斬る” 》

『三国志』の中に、だれもが知る「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」というエピソードがあります。

「蜀」の名参謀 諸葛亮(りょう)こと「諸葛孔明」は、有能な馬謖を高く評価し、自ら将軍に取り立てました。

しかし、馬謖が才に溺れたのか軍命に従わず動いたため、蜀軍は大敗をしてしまいます。

軍律違反は大罪ゆえに軍律保持のため、孔明は泣いて馬謖を処したという故事です。

このとき、陳寿の父親は馬謖の“参軍”(参謀役)をしていて、陳寿の父もまた連座して刑に処せられたと記されています。

●「陳寿伝」より抜粋(3)

「(亮の子)諸葛贍(しょかつ せん)も陳寿を軽んじていた。
陳寿は、亮(諸葛孔明)の伝を立て、“将軍としての計略は優れたものではなく、敵に対応できる軍才はない”と述べ、“諸葛贍は、ただ書がうまいだけで、名声がその実力を越えている”と言った。

議論する者は、このことで陳寿をそしった」



One-Point ◆ 肉親の情として同情はできます。が、史家としては信頼できない面が残ります。自分の感情判断で馬臺(馬台)を“邪馬壱国”に変え、臺與(台与)を“壱与”に変えています。これらは改ざんが明らかだったので、のちの史家たちは「邪馬台国」や「台与」と記しています。


《 史書『三国志』の編纂 》

上述のような信用を損ないかねないエピソードの一方で、次のような記述があります。

●「陳寿伝」より抜粋(4)

「(陳寿は)『魏呉蜀三国志』全65巻を編纂した。
当時の人々は、よく記述されており、すぐれた史官としての才能がある、と賞讃した。」

「夏侯湛(かこう たん)は、時を同じくして『魏書』を書いていた。
陳寿の著作をみると、自分の書いたものを破り、書くことを止めてしまった。」



One-Point ◆ 陳寿の正史『三国志』全65卷に触発されて、マンガやアニメにもなった『三国志演義』(通称:三国志)が人気を博しています。創作物語になるほどドラマチックに描かれているのです。逆に、それゆえどこまでが史実なのか客観的な判断があいまいになり史実だと誤認してしまうのです。


《 『三国志』が書き写されたいきさつ 》

「陳寿伝」の最後に、死後のエピソードとして『三国志』が書き写されたいきさつが記されています。

●「陳寿伝」より抜粋(5)

「范頵(はん くん)らが上表していうことには、(中略)。

“陳寿は『三国志』を著しました。
その文辞には、善を勧め悪を懲らしめることが多く記され、ことの成否が明らかにされ、人民を教え導くのに有益なものです。(中略)
どうか御採録を賜りますように。”

そこで、河南の尹・洛陽の令に詔がくだされ、(陳寿の)家に行って、その書(『三国志』)を書き写させた。
陳寿はまた『古国志』50篇、『益部耆旧伝』10篇を撰述し、その他の文章も今の世に伝えられている。」

One-Point ◆ “質直”というのは、飾り気がないことです。余計な修辞(レトリック)がなく記されているという意味ですが…。このように“デティール”(細部)が効きすぎているときは、『日本書紀』もそうですが、事実を糊塗しようとするなど、何か魂胆が隠されている部分です。






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