宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

傍証「本能寺の変」の事実
―織田信長のディレクション―

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7年前にアップしたホラリー「本能寺の変」の傍証です。
本能寺の変の直前、信長はどんな「星のディレクション」を受けていたのか。
今回は、そういった観点から“変”と信長の“運勢”を解き明かします。

「本能寺の変」は“変”ではなく、当然の出来事だった

織田信長

↑ 「本能寺の変」イメージ。

●第1稿 : 2019年12月25日アップ



基礎理論と「新ホラリー占星学」

●ホラリー・ホロスコープまたホラリー占星術は、生年月日によらず、質問されたときの時間や、事件や事故が起きたときの時間によって、事の真相をリーディングするものです。
宝瓶宮占星学の基礎理論を適用し、適切にこれを行なうのが「新ホラリー占星学」です。
当事者のホロスコープ(出生天球図)を重ねると、さらに真相がみえてきます。

よく、テレビや雑誌では「光秀は、なぜ信長を本能寺で弑逆したのか」、その「黒幕」はだれだったのかなど、ミステリー仕立てにして視聴率をかせいだり、売上部数を伸ばそうとしています。
来年2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が、どのように「本能寺の変」にいたる光秀の動機を描くのかわかりませんが、空想やドラマではなく“歴史的信長”からみればその事実がみえてきます。

《 ドラマや後世、歪められた光秀像 》

面白くなければ、「映画」や「ドラマ」になりません。

なので、いかにも「光秀を操った真犯人は誰か!」など、“あおり気味”な切り口で本能寺をとりあげることがあります。

それは、映画やドラマまたテレビにかぎらず、「ネット」でも同様です。

しかし、そのように俗に“三日天下”(実際は13日)に終わった光秀を、さも朝廷や将軍またイエズス会や四国の長宗我部元親など、ほかの戦国武将に操られた“二流”の無能な人物と見てしまうと間違います。

事実、そのような“黒幕説”は、正解ではないため決定打がなく、いまだ結論をだせず真相を明らかにできていません。

下克上が当然だった戦国時代の光秀を、主君殺しの“悪人”かのように仕立てたのは、光秀討伐の“大義名分”を明らかにしたい秀吉であり、また幕府への忠義を第一として政権安定をはかりたいのちの家康が、“君に忠”を旨とする「儒教」を統治政策として広めたためです。

そのため、当時、下克上は悪ではなかった戦国時代にあって、しごく「正当」な理由でもって信長を弑逆した光秀を、“二流の極悪人”かのように印象づけたのは、天下が治まってのち、謀反(下克上)が起きると再び世が乱れるからで、歴史上、必要だったとはいえ、豊臣政権下や徳川政権下以降のお話です。

その見方を現代の私たちも引き継いでいるために、光秀といえば、主君信長を殺した低レベルの“悪人”といった印象を、われ知らず抱くことがあるわけです。

「勧善懲悪」がテーマとなるドラマや世評では、光秀は“悪賢く”て“無能”に近い人物かのように描かれがちですが、それは根本的に間違いです。

One-Point ◆ 個人的には信長は家康とならんで好きな戦国武将です。ただし、本来は“せっかち”ゆえに“忍”の字を背負った家康とは違い、「本能寺の変」直前の信長は、やはり“やりすぎ”でした。史実もそうですし、信長に働く当時の「星のディレクション」をみても、たしかに天下とりで頂点に立てるものの“常軌を逸する”と、一気に天運を失うことがある時期でした。そんなこともあって、織田家ナンバー2の実力者で頭も切れた光秀としては、当時の信長を、公人としても私人としても殺害せざるをえない状況にあったことがわかります。


《 光秀と信長は政略婚ながら“義兄弟” 》

くりかえすまでもありませんが、信長殺害の理由はいくつかあります。

“実力主義”の織田家家臣団のなかで、光秀は頭抜けた出世頭であり、丹波、山城、坂本(近江)など34万石の筆頭家臣でした。

それほど功績や実力があったし、また光秀の妹(義妹説もある)は信長に輿入れし、側室(愛妾)となっていました。

つまり、政略結婚であったとしても、光秀と信長は“義兄弟”の関係だったのです。

もっとも、信長の側室になった「おつまき」は、本能寺の変の前年、天正9年になくなっています。

それが直接の原因ではありませんが、家族や親族など“身内”への情が深い信長からみれば、光秀との間に距離(ミゾ)ができる遠因になったといえます。

また、信長の正室「お濃の方」(濃姫)は、その名の呼び名のとおり美濃の斉藤道三の娘で、光秀とはいとこの関係にあったとされます。

もっとも、よく知られているように、信長と濃姫の仲が良かったというお話はあまり聞きません。

いずれにしても、天下を獲った秀吉が、織田家にあって“天下無双”の活躍をしたかのように『太閤記』などで語られますが、それは最後に勝ったものが“正義”で美談を残し、敗者の光秀は“悪者”にされるのが歴史の常だからです。

史実は、むしろ逆でした。

信長と光秀は、「濃姫」つながりで“遠戚”であり、妹「おつまき」ゆえに“義兄弟”なので、義理とはいえ信長と光秀の“身内コンビ”によって、信長の京デビューや天下取りは成し遂げられていったといえます。

事実、強力な「星のディレクション」が信長に働きはじめた天正5年(1577年)に、光秀には信長のお膝元である「丹波征討」が命じられる一方で、秀吉には最前線で遠方の「中国征討」が命じられています。

どちらがより危険なのかは、中央からの距離や敵勢力の多寡(たか)をみれば明白です。

つまり、信長からみて親族でナンバー2の光秀と、下っ端からのたたき上げで使い捨ての秀吉との格差は、史実からいえば天と地ほどの差が歴然とありました。

それが、歴史の結果としてみると、光秀は“三日天下”に終わり、秀吉は天下をとったがゆえに、光秀は貶められ、それまでの織田家臣団における功績も、また姉川の戦いにおける「金ヶ崎の退(の)き口」などをみてもわかるように、まるで秀吉が大活躍したかのように伝えられ広まっていったわけです。

なので、現在の目で光秀や、情報が乏しく正確さに欠ける戦国時代をみると、間違うことも多いのです。

One-Point ◆ 蟹宮生まれ「太陽」で、出生時間によっては「月」と「ドラゴン・テール」を底辺としたYOD(ヨッド=60・150・150)の頂点に「太陽」をもつ信長は、家族や親族には“情”をかよわせ“保護本能”を発揮します。正室「お濃」との関係は定かではありませんが、信長の愛妾(側室)の「おつまき」が本能寺の変の前年になくなったことは、それまでの“身内”(親族、義兄弟)の関係が弱まったことを意味し、遠因として考慮が必要です。


《 信長の「星のディレクション」 》

「なぜ光秀は、信長を弑逆したのか」というとき、ほとんどの人が光秀本人以上に周囲の“黒幕”とされる人物にスポットをあて、何とか“理由”を見出そうとします。

ですが、いまだに“真犯人”といえる黒幕が定まらないのは、「本能寺の変」をホラリー・ホロスコープから解釈しても、黒幕は存在せず、光秀単独での謀反というのが真相だからです。

さらには、光秀本人以上に、「本能寺の変」直前の信長は、どのような考えをもち、どのような状況にあって、どんな運勢(星のディレクション)を受けていたのかに焦点をあてると、案外とハッキリと「変」にいたる理由がみえてきます。

歴史的な事実や経緯と同時に、信長が受けていた当時の「星のディレクション」(運勢変化)はそれを教えてくれます。

下図は、信長の「ソーラーチャート」(出生天球図)をベースに、変事の「信長のディレクション」を読むためのトランシット・ホロスコープです。

「本能寺の変」の時の信長のディレクション

発生年月日 天正10年6月2日、朝4時40頃
事故の現場 京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町 (E135.75、N35.01)
事件の当事者 織田信長(満48歳)、明智光秀(54歳?)
データ典拠 2019.12.25現在のデータです。

One-Point ◆ 信長の出生時間がわからないため、出生時の太陽をASC(上昇点)の位置におくソーラーチャート(イコールハウス)で作成しています。今回は、当時の「シリウス暦」のままの日付によってホロスコープを作成しました。
※手持ちの「ホロスコープ作成ソフト」には、シリウス暦とグレゴリオ暦の自動変換がついていたためです。
ちなみに、本能寺の変があった年(1582年)の10月4日までがシリウス暦で、翌日からは現行のグレゴリオ暦のに定められ、10月15日になっています。要は10日進んだわけです。

《 信長の心中を見誤った光秀 》

「星のディレクション」の解説は後回しにして、当時の信長の状況と心境をお伝えいたします。

占星学はホロスコープ(出生天球図)から相応にその人となりを知ることができますので、このような歴史解釈にも便利です。

信長最大の脅威であった甲斐(甲州)の武田信玄も、越後の上杉謙信も病に倒れ、信玄のあとを継いだ武田勝頼とその騎馬軍団が信長にとって身近にある最大の脅威となっていました。

その勝頼を、天正3年(1575年)に「長篠の戦い」によって破ると、一時は和睦をしていたのですが、「本能寺の変」の天正10年(1582年)2月、とどめをさすべく嫡男・織田信忠を総大将として、徳川&北条軍とともに「甲州征伐」にでます。

同年3月、勝頼は天目山の戦いによって正室や嫡男とともに自害し、勇猛をほこった武田軍団は滅亡します。

もはや近隣に信長を脅かす敵はいません。

同時に、それまで芳しい実績がなかった跡継ぎ最有力候補で総大将を務めた嫡男・信忠に、武田家滅亡の大功績をあげさせることに成功したときだったのです。

つまり、名実ともに信長の“後継者”として信忠を周囲に認めさせることができました。

それは、家族思いで、シナ大陸進出の大望を抱く信長にとって、最大の課題であり念願でした。

織田一族による「天下布武」はもちろん、嫡男・信忠に近畿一円をはじめ天下を治めさせ、次男・信雄には四国を与えて、磐石の体制を敷き、自らはシナ大陸に進出していく“壮大な夢”が可能になった年だったのです。

ところが、そんな信長の心をどう見誤ったのか、同年4月21日に帰還した光秀は、織田家家臣がいならぶ面前で「我らも苦労した甲斐がありましたな」と言ってしまったのです。

これに信長は大激怒します。

当然です。

せっかく信忠を総大将として、武田家滅亡の勲功をあげさせ、天下に後継者として認知させるキッカケができたのです。

それを、たしかに光秀は活躍しましたが、“手柄”を横取りする言動のみならず、信長の“壮大な計画”を頭から台無しにする言葉を発してしまったからです。

One-Point ◆ こうなると、近畿一円を信忠に治めさせるに際して、そのお膝元の丹波・山城・坂本(近江)に老臣・光秀がいては、若くて“凡庸”な信忠にとって邪魔な存在になります。そのため、信長は中国出兵を光秀らに命じたことを機に、光秀の領地没収を行ない、格下の秀吉と戦中だった、まだ敵国の「出雲、石見」を切り取り次第として中央(秀忠)から遠ざけようとしたわけです。


“歴史認識”は史実と物語の混在

●『竜馬がゆく』もそうですが、創作されたドラマや物語は、今昔を問わずもっともらしい“ウソ”をともないます。
それによって歴史的事実が見えなくなることがあります。
明智軍が本能寺に向かうときもそうでした。

信長に注進する者があらわれ、謀反が漏れないように、光秀は家臣・天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた。
夏で早朝から畑に瓜をつくる農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した。

などと『川角太閤記』に記されています。
新月の夜の行軍なので真っ暗闇の中を進み、本能寺に着いて夜が明ける40分ほど前に、すでに取り囲み終えていました。
そんな時間に畑でウリをつくる農民がいるとは思えませんし、万が一いても見えたとも思えません。
一方、兵には「信長様への閲兵」に行くと知らせていたし、「家康を討つ」と思ったと責任逃れを記したものもありますが、裏切りを用心していたとしても、本能寺に“密告”することはまずありえません。
光秀を悪者にするための作り話また“講釈”です。
もちろん「敵は本能寺にあり」などと号令することもありません。
ドラマ用のセリフで、のちの脚色です。

《 謀反(下克上)は当然だった 》

室町幕府の将軍だった足利義昭は役立たずで、もはやいません。

新しい国家秩序をもたらす信長を補佐し、粉骨砕身、数々の手柄を立ててきた光秀でしたが、信長の側室、妹の「おつまき」もすでにおらず、信長が天下を視野にした今、明らかにかつては“義兄弟”だった光秀は、秀吉と同様に使い捨ての駒に落とされたのです。

もともと頭の良い光秀は、このとき、“信長は成長した嫡男・信忠と次男・信雄に天下をゆずり、功労があるナンバー2の自分(光秀)といえども、もはや使い捨ての走狗(そうく)にならざるをえない”ことをハッキリと悟ったのです。

もちろん、光秀にも妻子や家臣がいます。

後がない光秀にとって、領地をはじめ妻子や家臣の保全を図ろうとすれば、もはや信長を討つしか開ける道がないのは明白でした。

それを実行するなら、最大にして最後のチャンスが、1万3千の軍勢をもって、居城の一つだった亀山城(丹波)を出立した天正10年6月1日の翌日、つまり「本能寺の変」の当日のみでした。

もはや、この瞬間しか光秀に起死回生の一撃は残されていません。

新月の2日未明、このへんは脚色された記録も多いのですが、兵には「信長様に陣容や軍装の検分をしてもらいにいく」と告げて、重臣のみに信長殺害の意を明かした光秀は、暗闇のなか、真っ直ぐに本能寺へと歩をすすめました。

上掲の「ホロスコープ」をみますと、光秀は冷静沈着にことを運んでいます。

本能寺に内応者がいたのか、もしくは“スパイ”を派遣して探りをいれ、信長が間違いなく本能寺にいることをつかんでいました。

One-Point ◆ 一説では、著名な歴史学者がいうように、朝4時ごろには本能寺の包囲を終えていたようです。一方では、桂川を越えたあたりで夜が明けたともいわれます。ですが、夜が明けてからでは気づかれますので、実際は4時42分頃の日の出の直前、足半(あしなか)で敵味方の判別ができる黎明になって、攻撃に出たと思われます。


《 「星のディレクション」解題 》

最後に、信長に働いていた「星のディレクション」をお伝えいたします。

重要なポイントのみです。

上掲のホロスコープをご高覧いただけたらわかりますように、トランシットの「海王星」の合(コンジャンクション=0度)を信長はそれまで約9年間、受け続けていました。

もともと出生時の「海王星」を上方矩(アッパー・スクエア=90度)に生まれもつ信長は、“壮大な夢”をみるタイプであると同時に、この時期、“夢”や“妄想”が際限なくふくらんで、現実無視ともいえる“事実誤認”をしやすい時期にありました。

そんな信長に、“誤魔化すことのできない現実”を象わすトランシットの「土星」が上三分(アッパー・トライン=120度)をとって、現実を突きつけたのが「本能寺の変」とその直前の時期でした。

もう一つ、トランシットの「冥王星」が天正5年(1577年)から上方矩(アッパー・スクエア=90度)をとりはじめています。

これは、信長にとって、“TOP”すなわち天下人に立つことが可能になるディレクションのはじまりです。

事実、信長が双龍をあしらった「天下布武」の印を用いはじめたのは、この年です。

また、上述したように光秀を丹波平定に出陣させ、秀吉を中国攻めとなる播磨平定に出陣させて、西国方面に覇をのばした年でもありました。

ほかにも「楽市令」の発布や、「右大臣」への任官もこの年です。

ただし、このディレクションは、“TOP”(頂点)に立ったり成功するほど、謙虚さや王道を歩むことが必要です。

もし、ワンマンや傲慢になると、あるとき一気に足元をすくわれ、社会のどん底に落ちかねない注意すべき“両極端”のディレクションなのです。

そのため、実際、おごりたかぶった信長は、結果的に「本能寺の変」に倒れました。

One-Point ◆ 「木星&冥王星」の強力な合(0度)を、YOD(60・150・150)の底辺の一つ「ドラゴン・テール」に連続合(ローリング・コンジャンクション=0度)として生まれもつ信長です。それもあって信長は運命(宿命)的に冥王星のディレクションを受けやすく、奇跡的に“TOP”に立つこともあれば、一歩間違うと、逆に自ら危地を招く運勢を生まれもちます。天下を掌中にしはじめた信長が、もしワンマンや傲慢にならずに光秀に接していれば、「本能寺の変」は避けられたのは間違いありません。




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