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連載 邪馬台国は馬臺-その7
「邪馬台国」の比定地
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行程で問題なのは1箇所「投馬国」のみ

↑ 対馬の和多都美神社。

●リライト稿 : 2025年 6月16日アップ


15回にわたるシリーズを、最後の第15回めから逆順にお送りしている連載「邪馬台国は馬臺」の第8回めです。

今回は頭からだと本編の7回め「『邪馬台国』の比定地」をお送りいたします。

これまでアップしてきた記事は、この「邪馬台国」の比定地によって記されていますが、どのようにすれば侃々諤々(かんかん がくがく)の馬臺の位置が比定できるのでしょうか。

《 天才的なプロパガンダ 》

邪馬台国論争が混迷するのは、一部分だけを見てご判断しているからです。

とくに、日本の古代史が記されている『日本書紀』の編纂方針を理解することなく参考にすれば、確実に間違います。

『日本書紀』をウラから企画し監修した藤原不比等の天才的なプロパガンダ(政治宣伝)に面白いほど引っ掛かります。

それほど、地名を改変したり移し替え、地域の歴史書を抹殺し、系図を組み替えるなど、二重三重に古代日本を統一大和一国かのように作為しているためです。

とくに現代人は、明治新政府の絶対視せざるを得なかった皇国史観の残滓が色濃く脳内イメージに残されています。

そうでなくても、もし「邪馬台国」が大和(畿内)であれば、国生みの当初からの独立統一国家「大和」として和を重んじる『日本書紀』が、倭国大乱を共立によって治め、和をもたらした卑弥呼を記さないはずがありません。

One-Point ◆ 九州倭国も卑弥呼も出てこないのですが、強いて探せば「神代上巻」に暗喩されていなくはありません。ハッキリと記されているのではなく「そういう説もあるよ。よく分からないけどね」という態でお茶を濁しているのみです。




《 実在の“天照大神”は男性 》

ちょっと、その箇所を見てみましょう。

●『日本書紀』神代上巻より抜粋。

「私はもう大八洲国(おおやしまのくに)や山川草木を生んだ。どうして天下の主者(きみたるもの)を生まないでよかろうか」と。そこで一緒に日の神を生み申し上げた。―“大日孁貴”(おおひるめのむち)という。―一書に天照大神という。


「一書」(あるふみ)というのは別の言い伝えのことです。

『日本書紀』は正史正伝とは認められないけれども、そういった説もあるよとする一種保険のような記述です。

実際、天照大神の実在のモデルは男性で、卑弥呼は女性なのでまったくの別人なのですが…。

『日本書紀』編纂の意図は、高天原の皇祖「高皇産霊神」(たかみ むすびの かみ)のパートナーとして「天照大神」を“女神”として描く必要がありました。

『日本書紀』を貫く最大のその意図は、「万世一系」の実際の始まりと定着にあり、後述いたしました。

One-Point ◆ 壬申の乱に勝利し、ご即位された第40代天武天皇の意を受けて、后の持統天皇は、伊勢神宮を立派に造り変えました。さらに1,000年のちまでも続くように式年遷宮を定めています。そこに祀られるのが明治以降に「皇祖神」と明治天皇によって定められた天照大御神です。



《 持統天皇の「孫」へのご譲位 》

和風諡号「高天原広野姫天皇」(たかあまのはら ひろのひめの すめらみこと)。

どなたのことかお分かりでしょうか?

このお方こそ、第41代「持統天皇」の本来の諡号(しごう)です。

天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を、地上を治める主者(きみたるもの)として降臨させました。

あくまでも日本神話ですが、ご存じ「天孫降臨」です。

持統天皇も、孫の第42代「文武天皇」へと、天孫「瓊瓊杵尊」よろしく前例のないご譲位(当時は「政権移譲」)をされています。

One-Point ◆ 史実は逆です。持統天皇の意を受けた藤原不比等が、「天孫降臨」神話によって文武天皇のご即位と万世一系を、『日本書紀』によって正当と認めさせたです。なぜ? 天武天皇の1,000年のちまでも皇位争いを無くし平和を保つという大御心ゆえです。




●糸島市にも宇美八幡宮があります。仲哀天皇の山陵(墓所)があり、武内氏の子孫が代々守っています。


《 和をもたらした卑弥呼なのに 》

お話がそれましたが、「邪馬台国」が畿内だったら和をもたらした卑弥呼が『日本書紀』に記されないはずがありません。

記せないのは、「邪馬台国」があった九州倭国の実在がバレてしまうからです。

「邪馬台国」や九州倭国を封印して、当初からの独立統一国家「大和」一国史を描くのが『日本書紀』なので、より上位の編纂方針から逸脱してしまいます。

早いお話が、卑弥呼や邪馬台国がシナ(China:中国)の正史『三国志』や『隋書』(636-656完成)などにしか出てこない以上、それらの記述と、それを裏付ける考古学の出土データから比定するしかありません。

One-Point ◆ 畿内説の権威でもある学者が、以前に「倭国伝」と「日本伝」とが併記された『旧唐書』を、偽書だと決めつけていました。本気でそう考えていたのなら、アカデミーの権威を着た単なるアジテーターで学者失格です。


《 対馬は「つま」とも読まれる 》

「魏志倭人伝」に記される行程で問題なのは、実は1箇所のみです。

「不弥国」(ふみこく)までの里程の次に記される日程で記された「投馬国」(つま こく)です。

福岡市に「対馬小路」という町名があります。

なんと読むかご存じでしょうか。

一時住んでいたことがありますので分かりますが、「つま しょうじ」といいます。

ほかにも、「ツマアカスズメバチ」など対馬(つしま)と書いて「つま」と呼称する例がいくつかあります。

One-Point ◆ このことが分かれば、「投馬国」(つま こく)という古代の名称は「対馬」のことだと分かります。「南して投馬国に至る。水行すること20日なり」という記述は、出発地の帯方郡から再述したもので、邪馬台国までの総里程12,000余里と、日程表記の水行ひと月+陸行ひと月が、重なる地域が邪馬台国です。






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