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連載 古代日本の黎明 feat. 占星学
− 古代オリエントの影響 −
その4:縄文晩期の「ソブ製鉄」

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日本に来た古代オリエント人は「赤土」で製鉄を行なった

↑ フェニキア船 :地中海と外洋船(下)。


●第1稿 : 2018年11月 7日アップ




かんらん石

【かんらん石】
キラウエア火山(ハワイ)の噴火で空から降ってきた“宝石”の原石。

先回、イスラエルのソロモン王は、金や銀、珍物や鉄などの鉱物を探しに、「タルシシの船団」とフェニキアの「ヒラムの船団」を派遣したことを書きました。
彼らは、インドを経由して、縄文晩期の日本列島にやってきたことは、その痕跡からも明らかです。
なぜなら、火山列島の日本には、縄文晩期の当時は、まだ手付かずの“鉱物資源”が残っていたからです。


《 空から「宝石」が降ってきた 》

ハワイのキラウエア火山が今年2018年5月に噴火しました。

翌月6月13日には、山頂が噴火し、「溶岩」が高さ50mにまで吹き上がったといいます。

そのとき、緑色に光り輝く大量の“宝石”が空から降ってきました。

火山のマグマで生成された宝石「ペリドット」の原石“かんらん石”が、「溶岩」とともに噴き上げられ、「空から宝石が降ってきた」と話題になりました。

ニュースでご覧になられたかたも多いと存じます。

こういった宝石や金属は、多くの場合、「マグマ」の熱と、「プレート」などによる高い圧力、そして緩やかな冷却過程において生成されます。

たとえば、南アフリカにある世界最大の「金鉱床」の場合、約30億年前の巨大な「マグマ」の活動によってつくられたものです。

一方、プレートの縁(へり)にある日本列島の場合は、「環太平洋造山帯」に属し、約2億年前以降の比較的新しい「マグマ」と「プレート」の活動によってできた金鉱脈を有しています。

その特徴は、小規模ながら数が多いことです。

One-Point ◆ キラウエア火山の例をみるまでもなく、火山列島の日本には、宝石や金属類の鉱脈が生成されています。しかし、学校教育では、「日本は国土が狭く、資源がないために、加工貿易を行なってきた」などと教えられてきました。ですが、実態はそうではなく、過去も現在も日本は「資源大国」です。


● 秀吉に委託された山師

記録に残っている「鉱脈」の探し方は、次のような方法です。
秀吉に委託された山師の場合、川をさかのぼって鉱脈を見つけました。
川岸や川底に落ちた“鉱石”を探して、あれば崖の上や上流にさかのぼって「鉱脈」を発見したのです。
縄文晩期に、日本にやってきた古代オリエントの船団がそうだったからです。
彼らは海から、まず河口付近を観察します。
そこに宝石の“原石”や金銀などの“鉱石片”がないか、また赤い酸化鉄の沈殿や黒い砂鉄の堆積など、鉄の“形跡”がないかを探したのです。
見つければ、上流へと俎上していき「鉱脈」を発見したわけです。

《 縄文晩期の日本は“宝の島” 》

「環太平洋造山帯」に属する火山列島の「日本」には、鉱物資源が眠っています。

では、縄文晩期はどのような状態だったのでしょうか。

日本には太古からの火山が多く、当然、多くの断層があります。

というよりも、関東から九州まで縦断する「中央構造線」と、日本の真ん中を横断する「糸魚川-静岡構造線」の“2大断層”によって、日本列島は成り立っているのです。


中央構造線


日本のいたるところにある断層は、“崖”となり、その中には鉱脈や鉱石が露出するものが少なくありません。

縄文後期から晩期になると、黒潮によって大量の雨が日本列島にもたらされるようになりました。

理由は、先々回アップいたしました「その2:縄文時代の日本列島」をご高覧ください。

雨は、細長い国土のわりには高い3,000m級の山々の急峻な山肌や山裾をかけくだり、断層脇には川が流れるようになりました。

そのさい、濁流が「山肌」や「崖」を削っていったのです。

結局、火山の噴火によって地表に降った原鉱石や、断層から転げ落ちた原鉱石片は、洪水とともに川をくだり、漸次、河口付近や海に運ばれていくことになります。

ですが、新石器時代の縄文人にとって、それらはまだ価値がなく、野ざらし状態だったのです。

One-Point ◆ 現在では川に「ダム」や「堤防」が整備され、縄文晩期の大自然の状況に気づきにくくなりました。しかし、日本列島は、国土面積のわりには、左欄の各地の金鉱山の例を見てもわかるとおり、他国とくらべて宝石(原石)や鉱石また鉱脈といった鉱物資源があんがいと密集しています。日本に来た「古代オリエント」の人々は、海岸と山が近く、周囲を海に囲まれた日本はアクセスがしやすい“宝の島”でした。


● 補足:戦国武将の金鉱山

武田信玄

右の本文の補足です。

武田信玄は、「黒川金山」を所有し、掘削技術をもち、金山経営のプロである山師“金山衆”(かなやましゅう)をかかえていました。
金山衆の技術は、“城攻め”にも使われ、また有名な“信玄堤”にも活用されたといいます。
毛利元就は、中国地方を治め、世界遺産になった「石見銀山」を所有していました。
伊達政宗は、金鉱山開発に熱心で、「細倉鉱山」を所有していました。
秀吉死後は、マルコポーロの黄金の国“ジパング”のもととなったといわれる「玉山金山」を所有しています。

【戦国の三英傑】
織田信長は「生野銀山」を所有し、以降、同銀山は、秀吉、家康と受け継がれていきます。
豊臣秀吉はまた、「多田銀銅山」を所有していました。
徳川家康は、武田家滅亡後、信玄の家来を配下に迎えるだけではなく、武田家の金山を所有することで、勢いを増しました。
関ヶ原の戦いに勝利したのちは、上杉家所有だった「佐渡金山」を手に入れています。

《 「鉱物資源」大国の日本 》

日本の金鉱山の一例をご紹介します。

武田信玄にしても、毛利元就にしても、伊達政宗にしても、一大勢力を築いた著名な戦国武将は、金や銀などの鉱山を所有していました。

その富によって、家臣を養い、軍備を整え、名をはせることが可能になったわけです。
戦国の三英傑、信長、秀吉、家康も例外ではありません。

そんな戦国時代や明治、昭和の戦争もあって、今や地表付近の金や銀をはじめとした鉱山はあらから採掘し終えています。
つまり、現代人の目にふれることがないのです。

しかし、「古代オリエント」の船団がやってきた縄文晩期は、状況が異なりました。
大自然は手つかずのまま残っていて、当時の日本列島は、間違いなく鉱物資源大国だったのです。

ですが、30年ほど前に、また状況が変わりました。

1982年に署名され1994年に発効した「国連海洋法条約」によって、日本は再び“資源大国”になりました。

天然資源や自然エネルギーの管轄権、また人工島の設置が可能な「EEZ」(排他的経済水域)によって、日本は、EEZの広さでは世界第8位、地上をふくめた全領土は、世界第12位の大国になったのです。

日本のEEZ内の海底には、未発掘の金や銀またレアメタルをはじめとした数多くの鉱物資源が大量に眠っています。

アメリカが「シェールオイル」の採掘に成功したように、日本もいずれ海底から採算ベースの採掘に成功するでしょう。

One-Point ◆ ソロモン王の「タルシシの船団」は、紀元前10世紀初頭に3年に1度、金や銀や珍物を持って帰ったと、『旧約聖書』に記されています。地中海やアフリカ、目と鼻の先のインドなら、そんなに年月はかかりません。彼らはプレアデス(昴)が見えはじめる春に出航し、半年ほどをかけて秋頃に日本に来ました。その後1年半ほど活動し、春に帰り、帰国後は半年ほど船のメンテナンスを行なって、次の春にまた出航するといった3年サイクルです。


● 日本の金鉱山の一例

北海道から順番に次のような金鉱山が日本にありました。
現在は、「佐渡金山」の産出量をダブルスコアで上まわる鹿児島県の「菱刈金山」(鉱山)を除いて、ほとんどが閉山しています。
        ◆
鴻之舞鉱山:北海道紋別市
静狩金山 :北海道長万部町
長慶金山 :秋田県大館市
大葛鉱山 :秋田県大館市
尾去沢鉱山:秋田県鹿角市
大ヶ生金山:岩手県盛岡市
玉山金山 :岩手県陸前高田市
大谷鉱山 :宮城県気仙沼市
高玉金山 :福島県郡山市
佐渡金山 :新潟県佐渡市
梅ヶ島金山:静岡県静岡市
富士金山 :静岡県富士宮市
土肥金山 :静岡県伊豆市
大仁鉱山 :静岡県伊豆市
黒川金山 :山梨県甲州市
湯之奥金山:山梨県南巨摩郡
地蔵鉱山 :長野県北安曇郡
鯛生金山 :大分県日田市
山ヶ野金山:鹿児島県霧島市
串木野鉱山:同県いちき串木野市
菱刈鉱山 :鹿児島県伊佐市

《 日本を拠点とした「古代オリエント」 》

「古代オリエント」の船団は、日本に拠点をおきました。

そして、大陸や半島にもでかけ、紀元前7世紀頃には大陸でも一時期、製鉄を行なっています。
しかし、彼らは大陸や半島ではなく、日本列島に“根づいた”のです。

「鉱物資源」が豊富だったこともそうですが、次の4つの理由からです。

1、
大陸人や半島人は、土地に固執するため領土意識が強く、“戦闘的”だからです。
一方、縄文人は、古代海人族の系統なので、土地にはこだわりが少なく、また“民族性”を「魚宮」とすることから、“平和的”に受け入れたからです。

2、
「古代オリエント」の船団は、安全を図り、まず「島嶼」(とうしょ)を拠点として、偵察を行ないました。
日本にはそういった島が多く、日本自体もまた彼らのホームグラウンドである海に囲まれているために、アクセスがしやすく、イザというときはいつでも離脱が可能だったからです。

3、
日本原住民は、東南アジア(スンダランド)由来の“古代海人族”を先祖とする人々が多いために、「古代オリエント」からきた“船乗り”たちとは類似の“気質”で、“おおらか”な「木星」の象意をお互いにもっていたために、気脈をつうじやすかったのです。

4、
遠洋航海を行なううえで、必要な水や食料が日本には豊富にありました。
鉱物資源を採集するだけではなく、日本は「補給地」としても最適だったことが、彼らが日本を「拠点」とし、また“根づいた”理由です。

彼らは、鉱物資源がとれる土地の近辺に、天然の「良港」をみつけて拠点としました。

その代表的な場所をいくつかご紹介いたしますと、次のように“歴史的由緒”のある土地が多いのです。

当時、“表舞台”だった日本海側では、「出雲」(島根)や「丹後」(京都)がそうです。

瀬戸内海では、西端の「国東半島」(大分)がそうで、東端では「淡路島」(兵庫)に拠点をおきました。

太平洋側では、“古代海人族”が拠点とした「尾張」(愛知)が挙げられます。

彼らは、日本の河口をまわり、原石や鉱石片を発見すると、上流の断層地帯や山中の火山付近にまでさかのぼっていきました。

それが山奥にも彼らの痕跡が残る理由です。

また、“2大断層”の「中央構造線」や「糸魚川-静岡構造線」の近辺では、彼らの痕跡が多くみられます。

とくに、両構造線が交わる「諏訪」(長野)は、彼らが縄文晩期以降、拠点とした土地です。

One-Point ◆ 「古代オリエント」の船団は、古代イスラエル王国の南端、アカバ湾(紅海の奥)から出航しました。アラビア半島沿いにインドに向かい、大陸や島伝いに日本に来たのです。日本では「壱岐」を最初の拠点とし、一方、台湾から島伝いに南九州に来たケースでは、「沖縄」や「奄美」を最初の拠点としつつ、鹿児島湾に入り、“天之逆鉾”(あまのさかほこ)で有名な「霧島」(鹿児島)にも来ています。ちなみに、霧島山中央部の「新燃岳」(しんもえ だけ)は、今年2018年3月に爆発的な噴火をしました。


● 大陸伝来以前の“ほぞ継ぎ”

フェニキア船は、船クギを使わずに、レバノン杉などの“ほぞ継ぎ”によって造られました。
なぜなら、長い航海の間に、船クギは塩水で錆びてモロくなってしまうためです。
どうやら、そういった“ほぞ継ぎ”のノウハウも、古代縄文人は“製鉄”と同様に引き継いで、独自の工夫を加えていったようです。
戦後歴史学界は、“ほぞ継ぎ”などの建築技術は、弥生時代以降に「大陸」から伝わったと教えてきました。
しかし、近年の考古学的発掘によれば、能登半島の真脇遺跡では、「ほぞ状の突起」がある縄文晩期の角材が見つかっています。
また、三内丸山遺跡でも、大型の掘立柱建物の組み立てに、柱を入れる「ほぞ」(穴)が設けられていたことが明らかになっています。
すでに縄文時代に、「ほぞ継ぎ」による建築が行なわれていたのです。

《 古代オリエントの「製鉄」 》

日本に来た「古代オリエント」の人々は、当然、“製鉄”を行ないました。

原材料のまま持っては帰れませんので、鉄塊にしてバランサー代わりに船底に積んで帰ったのです。

では、彼らの“製鉄”とは、どのようなものでしょうか。

製鉄といえば、現代では“鉄鉱石”を原材料とし、大規模な溶鉱炉を思い浮かべます。

それ以前では、主に“砂鉄”を原材料とする「たたら製鉄」がよく知られています。

日本刀の場合、砂鉄を還元して「ヒ(けら)」をつくり、そこから純度の高い「玉鋼」(たまはがね)を選別して、何度も鍛錬して日本刀の原型がつくられていきます。

『日本書紀』に記されるように、初代神武天皇の皇后は、「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ひめ たたら いすずひめの みこと)と申し上げ、名前に“たたら”とあるように、古代から「たたら製鉄」は行なわれてきました。

しかし、古代オリエントの製鉄は、「たたら製鉄」とは異なります。

『旧約聖書』には次のように記されています。

『旧約聖書』 ヨブ記 第28章より抜粋
しろがねには掘り出す穴があり、精錬するこがねには出どころがある。
くろがねは土から取り、あかがねは石から溶かして取る。

「しろがね」というのは、“銀”のことです。
穴を掘って取り出し、精錬すると記されています。

「くろがね」が“鉄”のことです。
鉄は“土”から取り出すと記されています。

この“土”は、単なる土ではなく、酸化鉄を多く含んだ「赤土」のことです。
鉄分を多く含んだ赤土(染=ソブ)が大量にあったのが、大分県の「国東半島」(くにさき はんとう)でした。

ちなみに、「あかがね」というのは、“銅”のことです。

ソロモン王は国内に銅山を持っていたことが最近、明らかになりました。

ティムナ渓谷の銅山を発掘調査したところ、昨年2017年4月にソロモン王の時代のものだと確認されたのです。
この銅山が、「ソロモンの莫大な富と権力の源泉になったのではないか」とニュースになりました。

ゆえに、ソロモンは銅ではなく、金や銀また鉄に関心を示したのです。

One-Point ◆ 国東半島(くにさき はんとう)は、中央に位置する「両子山」(ふたごやま:火山群)の噴出物によって形成されたもので、「磁鉄鉱」を多く含んでいます。そのため「赤土」が多く、周辺の浜辺は一時期、「浜砂鉄」や「打上砂鉄」が堆積し、近年まで浜辺が砂鉄で真っ黒だったといいます。実は、国東半島にかぎらず、古代海人族が拠点とした鹿児島や尾張(愛知)などもそうですが、“赤土”(ソブ:赤水、赤泥)や“砂鉄海岸”はあちこちにありました。


●「鉄鐸」(さなぎ)の画像

鉄鐸

「銅鐸」の原型になったともいわれる「鉄鐸」の画像です。
実際、「さなぎ鈴」と別名される「鉄鐸」が出土しています。
「古代オリエント」の人々は、こんな感じに一部を空けて巻き、「ソブ製鉄」の“原材料”にしたのではないかというご参考です。



● 古代製鉄に使われた「赤土」

赤土の団子

縄文晩期に日本列島にやってきた「古代オリエント」の人々は、ヒッタイト由来の古代製鉄を行ないました。
材料は、火山列島の日本に多くあった酸化鉄を含む「赤土」です。
「団子状」や、木や竹に巻きつけた「ちくわ状」にして、薪にくべ、製錬したようです。
木の根っこなどに、水溶性の鉄がくっついてできる“高師小僧”(たかしこぞう)や“鳴石”(なりいわ、鈴石)などの「褐鉄鉱」(かってっこう)を使ったという説もありますが、それだと絶対量が少ないために、鉄はとれても、要が足りるまでにはいたりません。

《 「ソブ製鉄」から「たたら製鉄」へ 》

古代オリエントの人々が、“赤土”(ソブ)を原材料に「鉄」をとりだしたのは、おおむね次のような工程だと考えられます。

[1] 枯れた木や竹の周りに、赤土を“ちくわ”のように塗ります。
   このとき一部を空けておくと、効率がよいのはいうまでもありません。
   ※「鉄鐸」(さなぎ)のかたちに近いものです。
   もしくは左下の画像のように、ボール状にすることもあったようです。
[2] 軽く乾くのをまって、大量の薪のなかにくべます。
[3] ころあいをみはからって、水をかけます。
[4] 冷めるのを待って、溶け出した“鉄”の部分を集めます。

この方法だと、鉄を取り出した残りのスラッグ、鉄滓(てっさい)が大量に出ます。
それは残して、純度の高い部分のみを集めればいいわけです。

鉄をとりだす仕組みや原理がわかると、工夫に長けた縄文人は、土偶や土器をつくってきた経験から、効率のよい「たたら製鉄」を考案します。

初期の簡易構造のものから、次第に大規模な「たたら製鉄」の手法が確立され、高温での製鉄が可能になることによって、原材料も“赤土”から“砂鉄”へと変わっていったようです。

「ウィキペデア」によると、戦後歴史学界の主張どおり、「日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。」と書かれています。

しかし、史実は異なります。

6世紀どころか、3世紀の「北部九州連合」(倭)の女王、卑弥呼の時代前後の「ツクシ型送風管」(ふいご)が筑紫(つくし、ちくし:福岡)はもちろん、出雲、吉備、阿波、越などから出土しています。

3世紀の「鉄鏃」(てつぞく)の出土をみても、福岡をはじめ北部九州だけで、全国の約50%にあたる数が発見されています。

とくに筑紫や出雲などでは、チタン含有率が少なく、低い温度で溶ける“砂鉄”がとれました。

ということで、縄文晩期はもちろん、弥生時代の日本で“鉄”の自家生産がすでに行なわれていたのは明白です。

One-Point ◆ 今回、ネットをたぐってびっくりしました。以前、このサイトで縄文時代に製鉄があり、それは古代オリエントのものだと触れました。そのときは、“縄文製鉄”にかんする記事は、ほとんどなかったのですが、今では数多くの記事がアップされていたからです。北九州の高校では「ソブ製鉄」の実習が行なわれるなど、「製鉄は大陸や半島から来た」とする“歴史ねつ造”は、もはや改めざるをえない現状です。


※次回は、日本に残る古代オリエントの「痕跡」の数々をお送りする予定です。

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