宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学から解く日本の原点
その4:海人族と星の神々たち
−古代航海の目印はお星さま −

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先回、「その3:「天照大御神」の系譜」は、いきなりヘビィでした。
なので今回は、軽く「星」のお話などで息抜きです。
『日本書紀』に記された海人族にまつわる神々のことです。

海人族の神、北極星、北斗七星、そして三筒(三台)

↑ すばる(昴)、プレアデス星団。

●第1稿 : 2014年11月11日アップ




おことわり
※本連載は、一段落した時点で、内容確認とリライトをいたします。
そのため、場合によっては、内容の一部が変わることがありますので、あらかじめご了承ください。

現在のように、「GPS」も「レーダー」も、また「羅針盤」もなかった古代。
日中はともかく、夜の航海は、お星さまのみが頼りでした。
それゆえ海人族(あまぞく)にとって、星たちは「神々」でもあったのです。

《 「出航」を意味した「すばる」 》

少し、日本を離れます。
鉄器文明のはじまりは、紀元前18世紀頃〜同12世紀頃の「ヒッタイト」を嚆矢とするようです。
では、航海術はどうでしょうか。
ヒッタイトとのかかわりで申し上げますと、地中海をわがもの顔に暴れまわった「海の民(海賊)」、のちに地中海沿岸諸国の交易を一手に引き受けていた「フェニキア人」がいます。
彼らは、おうし座の中に光り輝く、「プレアデス」を航海の目印としていました。
なぜならプレアデス(プレイアデス)という名前は、その起源を「プレイン(出航)」とするからです。
夜空にプレアデスが見えはじめると、航海の季節のはじまりです。
地中海では、5月中旬頃〜11月初旬頃、つまり夏の夜に見られる星(星団)です。
肉眼では、5〜7個の星がまとまって見えるために、ご存じのように日本では「すばる」と呼ばれ、「まとめる」といった意味の「統(す)べる」から名づけられたともいわれています。
その後、中国からきた「昴」という漢字があてられるようになりました。
『日本書紀』の中で、この「すばる(昴)」が、どのような神の名で呼ばれていたのか見つけようとしましたが、現段階では見つかっていません。
すばる(昴)ことプレアデスは、かつては「おうし座」とは別に、一つの「星座」とされていたくらいですから、かなりの存在感です。
なので海人族(あまぞく)の国「日本」においては、なんらかの神の名で呼ばれていてもよさそうなのですが、見つけられないでいます。
ちなみに、「天照大神」が身につけていた五百箇の「御統(みすまる)の珠(たま)」は、珠を一つに「統(す)べる」ことから「御統(みすまる=すばる)」と呼ばれているのですが、これは神々ではないので該当しません。

One-Point ◆ 『日本書紀』には出てきませんが、神社のご祭神なら「すばる」はいらっしゃいます。「天須婆留女命(あめの すばる めの みこと)」がそれです。伊勢の正宮「皇大神宮」の摂社、かつての伊勢国で、現在は伊勢市の隣、度会郡の「棒原神社」(すぎはら・じんじゃ)の主祭神の一柱が「天須婆留女命御霊(あめの すばる めの みことの みたま)」です。ということは、皇大神宮は、「天照大御神」を祀りますので、その配下に、すばる(昴)ことプレアデスの星々を「神」とするフェニキア人あたりを祖に持つ一族がいたのかもしれません。

《 天津甕星(あまつ みか ぼし) 》

『日本書紀』の中で、確実に星の神と明記されているのは、「香香背男(かかせお)」です。
香香背男は、一書では「天香香背男(あまの かかせお」)また「天津甕星(あまつ みか ぼし)」と呼ばれています。
国譲りに最後まで抵抗したのが天津甕星こと香香背男で、素戔嗚尊(すさのお)系の一族です。
素戔嗚尊は『古事記』では、「建速須佐男命(たけはや すさの おの みこと)」と記されています。
おなじ「男」なのです。
『日本書紀』では、伊弉諾尊(いざなぎの みこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が、「どうして天下の主者(きみたるもの)を生まないでよかろうか」といって、三貴子 (みはしらの うずの みこ)を生みます。
最初に、日の神「大日霎貴(おお ひるめの むち)」、一書でいう「天照大神」を生みます。
次に、月の神、一書でいう「月読尊(つくよみの みこと)」を生みます。
最後に、「素戔嗚尊」を生みます。
日の神、月の神と生んだら、次は当然、「星の神」でしょ、となるのですが、ここでは素戔嗚尊が生まれています。
その素戔嗚尊の系統に、「星の神」香香背男こと天津甕星がいるのは、当然かもしれません。
彼らは「星」を神とする海人族なのです。
最初の国づくりにおいて、素戔嗚尊の子、大已貴神(おお あなむちの みこと)とともに、東北地方を治めていた人物が、この香香背男です。
天孫降臨の直前、最後のキーマンとなった人物です。

●『日本書紀』「神代(下)」
――あるいはいう。二神は邪神や草木・石に至るまで皆平らげられた。
従わないのは、星の神の香香背男(かかせお)だけとなった。
そこで建葉槌命(たけ はつちの みこと)を遣わして服させた。
そこで二神は天に上られたという。――

香香背男だけは最後まで抵抗したと記されています。
香香背男を服して、葦原中つ国(あしはらなかつくに)が完全に平定されたのち、瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)の天孫降臨が行なわれます。
最後まで抵抗したということは、地理的に申し上げますと、東国や関東を含めてもいいのですが東北地方を治めていた海人族です。
一書で、香香背男が「天津甕星」と呼ばれているからには、彼が「甕星(みかぼし)」を航海の神々としていた海人族であることを「天津(あまつ)」という名前が表わしています。
「あま」だけでは断定できませんが、「つ」と続けば、「あま(海人)+つ(津(=みなと、うみ、なみ)」なので、もはや海人族しかありません。
最初に本州国を平定した、元祖「天照大御神」に連なる素戔嗚尊や大已貴神(大国主神)の一党で、関東以遠を治めていた人物です。

One-Point ◆ この「みかぼし(甕星)」が何なのか断言まではできません。「みか」は輝くという意味なので「金星」という説、また「みかぼし」は三箇星のことで「オリオン(座)の三つ星」だという説もあります。ただ金星は、一時期に夕方と明け方のみしか現われませんので、航海の目印にはなりません。「三つ星」の可能性は残ります。推測ですが、元祖「天照大御神」系であることから、「天須婆留女命(あめの すばる めの みこと)」と同じく、案外と「すばる(昴)」ことプレアデスではないかと考えています。もしくは「北の明星」ともいわれる北極星かもしれません。


●博多湾岸の「九柱の神」神社

伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が、「黄泉の国」である半島や大陸と訣別するために、祓(みそ)ぎはらいをした場所は、当然、九州北岸を「想定」したものでなければなりません。
そのときに生まれたのが「九柱の神」です。
最初に、「八十枉津日神(やそ まがつ ひの かみ」)ら三柱の神。
次に、「底津少童命(そこつ わたつみの みこと)」ら「綿津見三神(わたつみ さんしん)」と、「底筒男命(そこつつの おの みこと」)ら「住吉三神(すみのえ さんじん)」の六柱の神です。
これら九柱の神は、博多湾岸に、そろって祀られています。
糸島半島の「桜井神社(旧名:與止姫宮)」。
博多湾中央、最奥部に位置する日本最初の「住吉神社」※。
安曇族の拠点で知られる志賀島の「志賀海神社」。
志賀海神社は、「君が代」と同じ歌詞が奉納されることでも知られています。
※注) 隠された史実上の「東征」後は、大阪の「住吉大社」が総本宮になりました。

《 伊弉諾尊の祓ぎはらい 》

三貴子 (みはしらの うずの みこ)が生まれた段の一書(第六)には、三貴子よりも先に生まれた神々が記されています。
最初に日本を治めていた主者(きみたるもの)が三貴子なので、それぞれの部族の王たち象わしています。
たとえば、天照大神は「統合的象徴」で「天孫族」、月読尊は「ヤマ族」、素戔嗚尊は「海人族」の王たちです。
それ以前に生まれた神々は、当然ながら人間ではなく、大自然の神ということになります。
ごたくはともかく、『日本書紀』をみてみましょう。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、黄泉の国から帰ってきて、祓(みそ)ぎはらいをされる重要なシーンです。

●『日本書紀』「神代(上)」一書より抜粋
伊弉諾尊が(黄泉の国から)帰られて悔いていわれるのに、
「私はさきにひどく汚いところに行ってきた。だから私の体の汚れたところを洗い流そう」
と出かけて、(中略)祓ぎはらいをされた。
(中略)
それによって生まれた神を名づけて、八十枉津日神(やそ まがつ ひの かみ)という。
次にその汚れたのを直そうとして生まれた神を神直日神(かん なお ひの かみ)という。
次に大直日神(おお なお ひの かみ)。
また水の底にもぐってすすいだ。
それによって生まれた神を、名づけて底津少童命(そこつ わたつみの みこと)という。
次に底筒男命(そこつつの おの みこと)。
また潮の中にもぐってすすいだ。
それによって生まれた神を、名づけて中津少童命(なかつ わたつみの みこと)という。
次に中筒男命(なかつつの おの みこと)。
また潮の上に浮いてすすいだ。
それによって生まれた神を、名づけて表津少童命(うわつ わたつみの みこと)という。
次に表筒男命(うわつつの おの みこと)。
全部で九柱の神がおいでになる。
その底筒男命・中筒男命・表筒男命は住吉大神である。
底津少童命・中津少童命・表津少童命は安曇連(あずみの むらじ)らがお祀りする神である。

この九柱の神ののち、天照大神、月読命、素戔嗚尊の三貴子が生まれます。
同じ祓ぎはらいのときに生まれながら、一書では、三貴子よりも先に九柱の神がいらっしゃったのです。
九柱の神は、人物ではなく「大自然(の神)」なので当然です。
ちなみに、通称「宗像三女神」が生まれるのは、さらにのちのことで、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)によってです。
『日本書紀』の本文では「三柱の神」と申し、一書においては「三柱の女神」と記されています。

One-Point ◆ なぜ「禊(みそぎ)」のシーンが重要なのかを申し上げますと、ここから日本がはじまるからです。「祓(みそ)ぎはらい」というのは、そういう意味です。つまり、過去を帳消しにして、新たに出発するということなのです。少なくとも『日本書紀』編纂プロジェクトチームは、そのように考えてこのシーンを描いています。


《 黄泉の国は「かの国」 》

少し、解説をしておきます。
一緒に国生みをした妻、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなられ、葬ります。
しかし、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、伊弉冉尊を忘れられずに、「黄泉の国」に会いにいきます。
実際には、黄泉の国に会いにいくことはできませんので、このシーンは当然、フィクションです。
ですが、伝えたい「メッセージ」があって記されています。
それが重要なのです。
伊弉諾尊は、「黄泉の国」で伊弉冉尊と会いますが、体中のあちこちからウジがわいていた妻のあまりにヒドイ姿に、結局は訣別をして、日本に帰ってきます。
その「汚れ」をおとすために「祓(みそ)ぎはらい」をしたのが上述の引用です。
『日本書紀』では、「ひどく汚いところに行ってきた。だから私の体の汚れたところを洗い流そう」と記されています。
これが『古事記』になると、もっと露骨で、「吾はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き國に到りてありけり」と表現されています。
その醜めき穢き「黄泉の国」とは、どこでしょうか。
「かの国」のことです。
このシーンの重要な意味は、日本は「かの国(黄泉の国)」と訣別をして、「独立」をして、新たに出発するということです。
史実としては、南方や西方また北方から来た諸民族を交えて古代日本が営まれます。
そういった多民族との「共同作業」によって、混沌の中に、日本の歴史が刻まれていったのは、『日本書紀』が記された7世紀までは「事実」です。
しかし、7世紀初頭のアメノタリシヒコ大王による「独立宣言」と、7世紀中頃の「白村江の戦い」の敗北を経たことで、「日本」という一つのアイデンティティーが、日本人の中に芽生えていきます。
「アイデンティティー」というのは、「自己同一性」というむずかしい言葉で訳されますが、分かりやすくいいますと、他人とは違う自分(たち)であり、確立した自分自身(組織、国家)であるという精神性のことです。
自立性や独立性(独自性)を象わす精神意識といいかえても間違いではありません。
そういった「日本精神」が目覚めたのが7世紀なのです。
『日本書紀』は「歴史書」という体裁をとりながら、そのような日本独立の精神のもとに記されています。
なので、伊弉諾尊の「祓ぎはらい」というエピソードを記すことによって、過去との訣別を図り、新しい「日本」として国家の自立と独立とを、豪族臣民(国民)に知らしめているのです。
もっとも、『日本書紀』は、海外に対する著でもあるために、直接かの国の「国名」を挙げて記すことはできませんが、状況を知る人が読めば、独立国「日本」を意味するエピソードであることは分かるはずです。
特定の国を名指しせずに「黄泉の国」と表現しているのは、そういう事情からです。
なぜ「黄泉の国」が「かの国」を指すことが分かるのかというと、「玄界灘(げんかい なだ)」という海峡名や祓ぎはらいをされた「場所」からそれが分かります。
九州(日本)と半島や大陸の間にある海を、九州側では「玄界灘」と呼びます。
ふつうの「海」なら「玄海灘」でいいはずです。
しかし、わざわざ「界」の字を使って、境界といった意味を持たせて「玄界灘」と呼んでいる以上、その向こうは「玄」、「玄(くら)い世界」、すなわち「黄泉の国」を示唆しているのです。

One-Point ◆ ということで、伊弉諾尊が「祓(みそ)ぎはらい」をされた場所は、フィクションとはいえ、半島や大陸との交易があった九州北岸でなければなりません。「唐泊(からどまり)」の名称が残る博多湾岸がそれで、実際、博多湾岸には、伊弉諾尊の「祓ぎはらい」によって生まれた神々を祀る神社が、すべて残されています。(左欄、上図ご参照)


●「大祓詞」に出てくる瀬織津姫

「大祓詞(おおはらえの ことば)」は、中臣氏が奏上していたものです。
「中臣祓詞(なかとみの はらえの ことば)」、また「中臣祭文(なかとみ さいもん)」ともいいます。
その中に、『日本書紀』には記されない「瀬織津姫(せおりつ ひめ)」が出てきます。

「たぎつ速川の瀬にいます瀬織津比賣(せおりつ ひめ)という神、大海原に持ち出ずなむ」

「瀬織津姫が、大海原に持ち出す」というのです。
これは津波が引くときに、陸地のもろもろのものを、海へとさらっていくさまを表しています。
瀬織津姫は、『日本書紀』の中では、「八十枉津日神(やそ まがつ ひの かみ)」として記されていることは、右の本文に書いたとおりです。

《 八十枉津日神と瀬織津姫 》

さて、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の「祓(みそ)ぎはらい」から、新しい日本がはじまりました。
ここからが、独立日本の歴史です。
伊弉諾尊は、まず「八十枉津日神(やそ まがつひの かみ)」をはじめとした九柱の神を生み、続いて天照大神など三貴子 (みはしらの うずの みこ)を生みます。
では、実在の人物を象わす三貴子より先に生まれた「九柱の神」とは、どなたなのでしょうか。
人間ではないのは、前述のとおりです。
まず、最初にお生まれになられた「八十枉津日神」は、海に囲まれた日本にとって、もっとも恐るべき大自然の神です。
名前からご正体を解いてみましょう。
やそ(八十)は、「すべて」を表わし、日本全国のことで、津々浦々を意味します。
まが(枉)は、道理が「まがる」ことで、尋常の状態ではないことを意味します。
つ(津)は、「〜の」という助詞などではなく、波や港など海にかかわることを意味します。
総じてみれば、もうお気づきでしょう。
「八十枉津日神」とは、津波の神さまなのです。
2011年に起きた「3.11東日本大震災」のときの津波からも分かるように、海人族にとって、拠点も船も何もかもを失わせるために、最も祀って鎮めなければならない神さまです。
それゆえ、いちばん最初に記されています。
続いて生まれた「神直日神(かん なお ひの かみ)」と「大直日神(おお なお ひの かみ)」は、津波を封じたり、被害からの復興を象わす神です。
『日本書紀』では、「八十枉津日神」と記していますが、一般的には、ほかの呼び名のほうがよく知られています。
一説で、「與止日女(よとひめ、よどひめ)」、また「瀬織津姫(せおりつひめ)」と申し上げます。
「與止日女(よとひめ)」は、海人族の拠点の1つだった有明海沿岸などで、津波や水の神のことを呼んでいます。
全国的に有名なところでは、やはり「瀬織津姫」でしょう。
なまえどおり、「せ(瀬)」を「おる(織る)」「つ(波、港、海)」と読めば、そのまま「津波」や「ビッグウェーブ」を象わします。
津波は、また「龍」にもなぞらえられました。
それゆえ瀬織津姫は、龍神でもあります。
どのようにして突如、津波が日本全国の津々浦々を広範囲に襲ってくるのか、分からなかった古代の人々は、その様態から、伝え聞いていた「龍」が動き暴れて津波が起きるのだと想像したのは難くないことでしょう。
博多湾の西端に、邪馬台国を記した通称「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」にちなんで名を残す糸島半島があり、その先端に「桜井神社」があります。
かつては「與止姫宮」と呼ばれていました。
そのご祭神は、伊弉諾尊が祓ぎはらいをされたときに最初に生まれた三柱の神、「八十枉津日神(やそまがつひのかみ)」「神直日神(かむなおひのかみ)」「大直日神(おおなおひのかみ)」です。
一方、「瀬織津姫」は、日本全国の津々浦々や河川、また海人族ゆかりの内陸部に合わせて450以上の神社に祀られています。
最も多い都道府県は、海岸線が長いこともありますが、やはり津波の多発地である岩手県(36社)と静岡県(32社)が群を抜きます。
太平洋岸にかぎれば、三重県(18社)と、海人族の拠点の一つだった愛知県(16社)が、これに次ぎます。

One-Point ◆ 伊勢の度会(わたらい)氏が編纂したとされる神道五部書のひとつ、「倭姫命世記(やまと ひめの みこと せいき)」では、伊勢内宮の第一別宮「荒祭宮(あらまつりのみや)」には「瀬織津姫(せおりつひめ)」を祀るとされます。引用しますと、「荒祭宮一座。皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神(いざなぎの おおかみ)の生める神、名は八十枉津日神なり。一名(またの名)、瀬織津比盗_(せおりつひめの かみ)これ也、御形は鏡に座す」と記されています。


《 海人族の神々 》

次に、日本古代史、2大海人族の神々をご紹介いたします。
海人族(あまぞく)は「星」を神々とします。
夜は星を頼りに航海をしていましたので、海人族と「星(神々)」は切っても切り離せない関係にあります。
ちなみに、大海人皇子(おお あまの おうじ)こと天武天皇(てんむ てんのう)も、古代から続く海人族の出自です。
「大海人」というからには「元祖海人族」を意味し、かつて豊の国「国東半島」界隈に拠点をもっていた一族です。
その3:「天照大御神」の系譜」に書きましたように、「万世一系」を体現された文武天皇(もんむ てんのう)の諡号には、2つとも「豊 祖父(とよ おほぢ)」とされていることからも、それが分かります。
天武天皇ご自身も、海人族らしく、天体観測を行なう「占星台」を建てたことが、『日本書紀』に記されています。
さて、2大海人族とは、「住吉大神(すみのえの おおかみ、すみよしの おおかみ)」と「安曇族(あづみぞく)」です。
上述した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の祓(みそ)ぎはらいによって、八十枉津日神(やそ まがつ ひの かみ)ら「三柱の神」に続いて、海人族の「六柱の神々」が生まれます。
住吉三神は、「底筒男命(そこつつの おの みこと)」「中筒男命(なかつつの おの みこと)」「表筒男命(うわつつの おの みこと)」です。
安曇族は、「底津少童命(そこつ わたつみの みこと)」「中津少童命(なかつ わたつみの みこと)」「表津少童命(うわつ わたつみの みこと)」こと、綿津見三神(わたつみ さんしん)です。
1対ずつ3組、六柱の神が同時に生まれています。
このままご説明していくと、また長くなりそうなので、ここで結論を書きます。
この六柱の神々が、どの「星」なのかというと、「北極星」の近くにある「三筒(さんづつ)」をさします。
「三台」ともいいます。
「台」は、天子の宮殿や直属の中央政庁を意味します。
紫微斗数(しびとすう)をご存じの方ならすぐに分かると存じますが、中心の「北極星」を紫微星と呼び、「天子(皇帝)」を象わします。
日本でいえば、「天皇」です。
その直下に、「天子の乗り物」また「将官」らを象わす「北斗七星」あって、そのもとに並んでいる星々が「三筒(三台)」です。
北斗七星で知られる「おおぐま座」の3つの足に位置しており、2つずつ並んだ6つの星々が、「綿津見三神」と「住吉三神」で六柱の神を象わします。
海人族は、北極星(当時)と、それを中心に回る「北斗七星」の位置を目印に、航海をしていました。
なので、この「三筒(三台)」を、2大海人族の住吉大神こと「住吉三神」と、安曇族の神々こと「綿津見三神」として記したのです。


One-Point ◆ まず、古代日本に、「おおぐま座」という星座(概念)はなかったことをご理解ください。また、北極星は、時代とともに変わります。約25,920年(計算値)の宇宙的周期のプラトン年(グレート・イヤー)をもって一周し、元の星に戻ります。それゆえ、約2,000年前、海人族の時代の北極星は、現在の「ポラリス(北の明星)」ではありませんでした。当時の「北極星(コカブ)」を中心に、「北斗(七星)」が回り、これらを目印に航海をしました。その北斗七星の元にある「三筒(三台)」が海人族の神々「住吉三神」と「綿津見三神」を象わします。

《 オリオンの三つ星 》

ついでに、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)のときに生まれた三柱の神、「田心姫(たごり ひめ)」「湍津姫(たぎつ ひめ)」「市杵嶋姫(いつきしま ひめ)」を、ごく簡単にご紹介しておきます。
こちらは、何人かの方々がご紹介していますように、「オリオン(座)の三つ星」を意味します。
宗像君(むなかたの きみ)らが、冬の日本海を渡るとき、とくに日本に帰る南行のときに航海の目印としたものです。
冬場は、「北斗七星」が水平線近くまで降りてきて、見えにくいことがあります。
これに対して「オリオン座」は、冬に現われる星座で、進行方向側の南の夜空に見えます。
また、三つ星は、ちょうど天の赤道上を通るので、抜群の目印になるためです。
ちなみに、『日本書紀』の本文では、三女神ではなく、単に「三柱の神」と記されています。
これは、姫神としながらも、人ではなく、「星(神)」であるゆえです。
もっとも、一書では、「宇佐嶋に降らせられた三柱の女神」として、水沼君(みぬまの きみ)らの祭神とも記されています。
水沼君は、もともとは有明海や筑後川流域を拠点としていた一族です。

One-Point ◆ 「宇佐嶋に降らせられた三柱の女神」と、豊の国(大分県)の宇佐の俗にいう「三女神」また「比賣大神(ひめ おおかみ)」、さらには「宗像三女神」には、いろいろと混同がみられます。宇佐は三女神というよりも、「二女神」が真相(史実)です。これについては、後日、何かのついでに書くことがあるかもしれません。



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