宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
その11:日本武尊と武内宿禰
− 古代史の二大英雄 −

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東征した初代「神武天皇」とは実質上の武内宿禰

↑ 日本銀行「旧五円札」の武内宿禰。

●第1稿 : 2013年 5月16日アップ




《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

古代の日本成立史、つまり『日本書紀』が隠した史実を明らかにする最大のカギは、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と「武内宿禰(たけのうちのすくね)」です。
この二人、古代史の最重要人物でありながら、『日本書紀』では「天皇」の脇役として描かれています。
しかし、『日本書紀』をよく読んで解き明かしていくと、彼らが本当は何者であったのか重大な真実が見えてきます。

《 歴史の主人公 》

この「占星学と解く日本成立史」では、古代史の書籍やWEBサイトにあるような「憶測」を排しています。
学術的解説者や作家が書いた古代史本のように、「推論」に「推論」を重ねていけば、いくらでも「憶測」ができます。
それでは史実になりません。
あくまでも『日本書紀』など歴史書の記述を根拠に、その編纂意図や編集手法と当時の時代事情や価値観をメインに、誤謬を解き明かす方法で、彼らが何をどのように隠そうとしてきたのかを見抜いてご紹介しています。
雑誌や単行本の編集長の経験があることが一助になっていますが、やはり宝瓶宮占星学による「星のディレクション」と歴史人物の性格や運勢を「占星学的にプロファイリング」することも、一つの裏付けとなっています。
先に結論を書きましょう。
「日本武尊」と「武内宿禰」こそが、古代日本を成立させた二大英雄です。
もっとも、それぞれに別名を持ちますので、その意味が分からなければ、「何をヘンなことを書いているのだ」とお叱りを受けそうです。
『日本書紀』は、日本を成立させたこの二大英雄を、それぞれ複数の別名に分けて記すことで功績を分け、また分かりにくくすることに成功しています。
彼らが築いた国を、結果的に奪ったのが天智系天皇と藤原氏(中臣氏)なので当然です。
その天智系天皇と藤原氏のコンビが『日本書紀』編纂時の権力者であったために、日本武尊と武内宿禰を歴史の脇役にしてしまいました。
もし、天武天皇が生きて最後まで『日本書紀』を完成させていたなら、日本武尊と武内宿禰を古代史の主人公に、まったく違った名実ともの「万世一系」が残されていたことでしょう。
日本武尊を『古事記』と『日本書紀』で比べると次の違いがあります。

『古事記』では、倭建命(やまとたけるのみこと)すなわち日本武尊は、九州の熊襲(くまそ)を討伐して、次に東国を平らげます。

『日本書紀』では、景行天皇が先に熊襲を討伐したのち、その命を受けた日本武尊が再び熊襲を討伐して、次に東国を平らげます。その上で「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を尾張に残します。

なぜ、『日本書紀』で、架空の景行天皇が熊襲を討伐したことにしたのかというと、畿内「大和国」の天皇が先に九州を征服したことにしたかったためです。
要は、日本武尊の手柄にしたくなかったのです。
どういうことかというと、「倭建命」という名前は、「倭国」を「建国」した人物という意味を象わします。
「日本武尊」も同様で、(九州を出自とする)日本を平らげた人物という意味です。
「建」も「武」も「たけ」で、『日本書紀』では九州「倭国」を出自とする人物の名前に「武」がつけられます。
この日本武尊が、九州の熊襲を討伐したのち、東国を平らげるために用いたのが「草薙剣」です。
「神代紀」において、最初に国を平らげたのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子、草薙剣を受け継いだ大已貴命(おおあなむちのみこと)でした。
つまり、日本武尊こそが大已貴命の姿で、「神代紀」と「景行天皇紀」に分けて別名で記すことで分かりにくくしているのです。
最初に国づくりを行なった素戔嗚尊や大已貴命については、これまでご紹介してきたとおりなので、ご説明は省略いたします。

One-Point ◆ 『日本書紀』は複雑そうに見えますがシンプルです。同じような話が繰り返されています。時代や名前やシチュエーションを変えているために、一見、分かりづらいのですが、神武東征(紀元前660年)以前の「神代紀」にも、また実際の「神武東征(3〜4世紀)」以降の歴史にも、さほどなかった記録をタネに二つの時代に使いまわしています。それは「神武東征」のお話が、実在の「応神天皇(武内宿禰)」のことだと分かれば、案外と簡単に見えてきます。

《 日本武尊の正体 》

『日本書紀』には次のように記されています。

「景行天皇紀」から抜粋
「(景行2年、天皇の)后は二人の男子を生まれた。第一を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二を小碓尊(おうすのみこと)という。」
「小碓尊はまたの名を日本童男(やまとおぐな)。または日本武尊という。」

だいたい『日本書紀』が、重要人物に対して「またの名を…」と書き記すときは、正体を隠したいときです。
「聖徳太子(厩戸皇子)」がその代表例ですし、大国主神(大已貴命)もそうです。
その3:『日本書紀』かく語りき」に書いたように、複数の名前を挙げて、正体を分かりにくくしたり、誰かの功績を隠したりするときです。
それは、例の天智・藤原コンビにとって、正体がバレルと困る人物で、日本を成立させた歴史の主人公が多いのです。
それはともかく、上の引用文におかしな点があるのをお気づきですか。
『日本書紀』は案外と律儀なところがあって、のちの天智天皇「中大兄」を、決して「中大兄皇子」と表記しなかったように、本当は天皇の子でない場合、「皇子」という称号をほとんど記しません。
日本武尊に対しても同様です。
上の引用文では、長子は「大碓皇子」で天皇の子「皇子」として記されています。
しかし、日本武尊は「小碓尊」で、兄弟であるはずなのに「皇子」という称号が使われていません。
もっとも、景行天皇は架空の天皇なので存在せず、大碓皇子もすぐに殺されたことになっていますので、結局「景行天皇紀」の主人公は、日本武尊と武内宿禰です。
この二人、ほぼ同年代の生まれで、9歳ほどしか違いません。
詳しくは後述いたします。
日本武尊は九州の熊襲を討伐したのち、「草薙剣」を持って東国を平らげます。
この「草薙剣」は、素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したときに手に入れたものです。
国を治めた者が持つ御璽(みしるし)つまり「三種神器」の一つ宝剣「草薙剣」を持って日本武尊が東国に向かったというのは、国を平らげ統一する前だということが分かります。
「神代紀」では、大已貴命が広矛(草薙剣)をもって国を平らげたのち、その広矛を皇孫に差し出し、国をゆずったことになっています。
つまり、日本武尊が「草薙剣」を用いて東国に向かうお話は、国を平らげる前なので、日本武尊が大已貴命であることを意味しています。
大已貴命のまたの名は、「大国主神(おおくにぬしのかみ)」といい、先に国を治めた人物を意味します。
日本武尊も、国を平らげた(建てた)人物を意味しますので、両者は同一人物です。
また、日本武尊は東国を平らげたあと、尾張の宮簀媛(みやすひめ)を娶(め)とり、尾張に長く留まります。
その後、「草薙剣」を宮簀媛に預けたまま、亡くなります。
尾張の熱田神宮に「草薙剣」が残されている由縁です。
これも「その9:大已貴命の本拠地尾張」に書いたように、大已貴命が最後に尾張を拠点としたゆえ、「草薙剣」が熱田神宮に奉斎されているお話と一致します。

One-Point ◆ 景行天皇や日本武尊は、第10代「崇神天皇」と第15代「応神天皇」の間の人物です。後述するように「神武東征」は実在の「応神(武内宿禰)東征」なので、日本武尊は、「神武」以前に畿内「大和国」をはじめ「本州国」を治めていた人物を表わします。素戔嗚尊や大已貴命、すなわち「大国主神」を象わす人物です。


●初代「神武天皇」のネタもと

「神代紀」というのは、神武東征以前のお話です。
一般に「神話」とされますので、不思議な話も多いのですが、逆に「神話」だからこそ書ける史実もあります。
「天皇紀」は、架空の初代「神武天皇」から始まります。
しかし、何もないところからの創作ではありません。
第15代「応神天皇(武内宿禰)」と第40代「天武天皇」のエピソードをモチーフにして創作しています。
ともに九州「倭国」を出自とする天皇でもあるからです。
つまり、応神(武内宿禰)以前の記述は、「神代紀」と重なっているのです。

《 日本武尊と武内宿禰 》

次に、もう一人の英雄、武内宿禰についてお届けいたします。
『日本書紀』には、次のように記されています。
景行天皇の2年、日本武尊こと小碓尊が生まれた次の年の記述です。

「景行天皇紀」から抜粋。
「(景行3年)武雄心命(たけおごころのみこと)は阿備の柏原にいて、神祇を祀った。そこに9年住まれた。紀直(きのあたい)の先祖莵道彦(うじひこ)の女影媛を娶とって、武内宿禰を生ませた。」
「(景行27年)冬10月13日、日本武尊を遣わして、熊襲を討たせた。このとき、年は16歳。」

日本武尊(小碓尊)は、上述のように景行2年に生まれています。
であれば景行27年には16歳ではなく、25歳になっています。
では、年が16歳の「日本武尊」とは誰かというと、武雄心命が9年住んで生んだ「武内宿禰」です。
「武雄心命」は、かつての肥前(熊本県の北、今の佐賀県)の武雄に由来する人物です。
熊襲も九州です。
「武内宿禰」という名前も、「武」は「九州」、「内」はそのまま「内」、「宿禰」は「王」なので、「九州を治めた王」を意味します。
16歳のとき女装して熊襲を討った「日本武尊」が、のちに九州を治めた「武内宿禰」であっても矛盾はありません。
結局、熊襲を討伐した「日本武尊」は、実は武内宿禰で、その後、「草薙剣」を持って東国を平らげた「日本武尊」は、「神代紀」にいう大已貴命です。
日本武尊は、死後、「白鳥となって、陵から出て倭国をさして飛んでいかれた」と『日本書紀』に記されています。
これも、もともと大已貴命と武内宿禰の正体と功績を隠すため、便宜上に設定した人物が「日本武尊」なので、証拠隠滅を図り、誰だか分からないようにした記述です。

One-Point ◆ このように時代を前後させて解釈することで、史実が明らかになります。なぜかというと、もともと一つの「記録(史実)」しかなかったものを、古来からの歴史がある日本にみせるために、『日本書紀』が年代をさかのぼらせて神武以前の「神代紀」に記し、同時に実際の「崇神」以降の「天皇紀」に振り分けて使いまわしたために生じたものです。


●住吉大神と天照(豊受)大神

実在の応神天皇の時代が、初代「神武天皇」の時期に当たります。
そのため、応神を生んだ仲哀天皇と神功皇后は、「神代紀」における「大神」に相当します。
「大神」というのは、「天照大神」というように、大元の「神」のことです。
当時の人は、応神(武内宿禰)東征の事実を知っていて、中国に伝えています。
『宋史』「日本国」伝には、次のように記されています。

「次は仲哀天皇にして、国人は言う、今は鎮国香椎大神と為すと。
次は神功皇后、国人は言う、今は太奈良姫大神と為すと。」

架空の「仲哀」と「神功」は、応神を生んだ「大神」なのです。
実際は、武内宿禰と台与の子です。
そのため、武内宿禰も「住吉大神」、台与も「天照大神」また「豊受大神」と呼ばれます。

《 武内宿禰の東征 》

『日本書紀』では、武内宿禰は4代の天皇に仕えた超長寿の設定になっています。
各天皇の即位年数から、その寿命は300年〜400年です。
よくまあ、こういうウソを書けたものですが、実は分かったうえで記しているので、リアルにゴマかさなかった分、逆に史実が分かるように配慮し、功績を密かに顕彰しているのです。
それを読みとれずに、『日本書紀』の天皇紀をまるまる信じて、300年も400年も生きた「武内宿禰」は架空の人物だと解釈します。
また、「武内宿禰」は、何人かの人物を一人に投影したために長寿だという解釈もあります。
両方とも間違いです。
なぜ、間違っているのかというと、どちらも「天皇」を絶対としているからです。
『日本書紀』のワナにまんまとハマっていて、事実は逆です。
武内宿禰が仕えたとされる「景行天皇」「成務天皇」「仲哀天皇」そして「神功皇后」のほうが架空の人物です。
理由は「その5:蘇我「天皇」政権の3代」の「他の架空の天皇」に書いておいたとおりです。
それが分かれば、武内宿禰は100歳くらいの長寿です。
なぜ、『日本書紀』が、武内宿禰の時代に架空の天皇や皇后を4人も付け足したのかというと、彼こそが東征した架空の「神武天皇」に呼応するからです。
その正体を隠し、「大和一国史」と「万世一系」を演出するために、4人もの天皇を創作し、同時に武内宿禰の功績を顕彰するために、超長寿にしたものです。
カラクリは、次のとおりです。
武内宿禰は、その名前のとおり九州「倭国」を治めた大王です。
しかし、周囲が納得しなかったために、卑弥呼の宗女(一族の娘)13歳の台与(とよ)を2代目女王に立てて、第2次「倭国(女王国)」を治めます。
当然、13歳の台与に実権はなく、九州倭国連合の「和」の象徴であるのは明らかで、実質は武内宿禰が連合国の天皇(おおきみ=大王)です。
彼は、九州「倭国」から、自由に力を発揮できる畿内「大和国」を目指します。
このとき、台与とその子を「権威」とし、九州「倭国」の勢力を従えます。
台与は、九州倭国連合をまとめるための旗印で、その子「応神天皇」も当時はまだ生まれたばかりなので実権はありません。
結局、武内宿禰の東征なのです。
その史実を書いてしまうと、武内宿禰が畿内「大和国」を建国したことが分かってしまいます。
それだけはどうしても避けなければなりません。
なぜ避けなければならないかというと、次の「その12-最終回:天武の「和」の精神」に書きますが、その子孫を滅ぼして国を奪ったのが、天智天皇こと「中大兄」と藤原の鎌足こと「中臣鎌足」だからです。
その子ら天智系天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)ら権力者が、それだけは『日本書紀』に残すはずがありません。
結局、『日本書紀』は、台与に代わって「神功皇后」らを創作し、「大和一国史」と「万世一系」を演出しています。
これが「神武東征」の真実です。

One-Point ◆その3:『日本書紀』かく語りき」に書いたように、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかったのですが、「兄弟」とすることで「万世一系」を演出したように、仲哀天皇を創作し、九州で生まれた「応神天皇」と、畿内「大和国」の「カゴサカ王」と「忍熊王」を、応神の異母兄弟とすることで、「万世一系」を演出しました。これは『日本書紀』の編集手法なので、他の天皇紀にも同じような手法がとられた記述があります。


●武内宿禰は「住吉大神」

武内宿禰が「住吉大神」であるのは、住吉大社の伝承もさることながら、「神功皇后紀」に暗喩されています。
応神(武内宿禰)東征は「神功皇后紀」に記されますが、そこには「神代紀」に記される海人族「住吉三神」が4か所も登場します。
なぜ「神代紀」の住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)が、「神功皇后紀」にひんぱんに登場するのかというのは、上にも書いたとおり、実際の「崇神天皇」以降の出来事を、使いまわしたのが「神代紀」だからです。
こういったことからも武内宿禰が実在の「住吉大神」だと分かります。

《 武内宿禰も海人(あま)族 》

まとめましょう。
九州から東征し、紀元前660年に即位したとされる初代「神武天皇」は、当然、架空の人物です。
実際は、素戔嗚尊と大已貴命ら、またの名を大国主神、大物主神、大国玉神と呼ばれる「草薙剣」グループが、最初に国づくりを行います。
彼らは「尾張」を最終的な拠点に、畿内「大和国」をはじめ「本州国」を治めます。
『日本書紀』の「天皇紀」では、彼らは「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」すなわち初めて国を治めた大王、第10代「崇神天皇」として記されています。
一方、やや遅れながらも、ほぼ並行的に、卑弥呼の死後、九州「倭国」王になったのが武内宿禰です。
彼は、台与を立てることで、九州倭国連合国家をまとめます。
その武内宿禰が、台与とその子「のちの応神」を抱いて東征し、畿内「大和国」をゆずり受けて日本を統一します。
これが「八咫鏡(やたのかがみ)」グループです。
彼らは、そこで国を治める御璽(みしるし)として「草薙剣」を大已貴命とされる人物からゆずり受けます。
以降、「八咫鏡」と「草薙剣」は、日本を治める者が持つ御璽になります。
そして武内宿禰と台与の子が、第15代「応神天皇(実質は武内宿禰)」となり、成長して次の聖帝、第16代「仁徳天皇」になります。

「神武天皇紀」から抜粋(東征前)
「(神武天皇が言われるのに、昔、)天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた」

東征前に神武がいた「豊葦原瑞穂国」というのは、現在の博多駅一帯です。
そこには現在も那珂川沿いのキャナルシティ脇の一等地に、広い敷地を持つ「住吉神社」があります。
東征後は、大阪の「住吉大社」が総本社になりましたが、古代は海辺にあったこの「住吉神社」が、住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を祀る最も古い神社で、「日本第一住吉宮」とされ、本宮と記録されています。
武内宿禰が、海神(わたつみ)の一方の海人(あま)族「住吉大神」なのは、知る人ぞ知る有名な事実です。
東征前の神武天皇がいた「豊葦原瑞穂国」に、最初の「住吉神社」があることも、武内宿禰が「住吉大神」であり、神武天皇に投影されることを裏付けています。

One-Point ◆ 「三種神器」は、もともとは「八咫鏡」と「草薙剣」の2つです。後年、天智・藤原氏の時代に「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」が加えられ、「三種神器」と呼ばれるようになりました。彼らは、「八咫鏡」の一族でもなく、「草薙剣」の一族でもなく、7世紀に後発した第三の「八坂瓊曲玉」の一族だといえます。ただし、天皇また日本という国は、それらすべてを受け入れて「和」を象徴して、「天運」を今日に至るも共に抱いた存在になっています。



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