宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

ホラリー「関ヶ原の戦い」
― 徳川家康の意外な一面 ―

事実とは異なる側面をもった関ヶ原のウラ事情と家康

家康本陣

●第1稿 : 2015年12月31日 アップ



基礎理論と「新ホラリー占星学」

●ホラリー・ホロスコープまたホラリー占星術は、生年月日によらず、質問されたときの時間や、事件や事故が起きたときの時間によって、事の真相をリーディングするものです。
宝瓶宮占星学の基礎理論「数理法則」を適用し、適切に展開するのが「新ホラリー占星学」です。
そこに当事者のホロスコープ(出生天球図)を重ねると、さらに真相がみえてきます。

一般に流布される「関ヶ原の戦い」と、ホラリー・ホロスコープから読みとれる関ヶ原の様相はかなり異なります。
また、徳川家康についても、ホロスコープ(出生天球図)をみるとイメージが異なります。
徳川幕府をひらくキッカケとなった「関ヶ原の戦い」は、天下分け目の戦い以上に、日本の日本たる歴史をひらきました。

《 家康の「悪評」と関ヶ原 》

徳川300年の歴史に終止符を打った明治維新政府によって、徳川幕府の開祖、家康は貶められました。
その代表は「腹黒いタヌキ親父」といった評価です。
なぜなら、明治政府の中核を占めた薩摩と長州は、関ヶ原の戦いで家康に負けた西軍側の雄でもあったからです。
戦前まではそうでも、戦後の高度成長時代、徳川家康は見直されます。
山岡荘八の大著『徳川家康』によって長期安定政権の礎を築いた家康は、「経営者のバイブル」として評価されることになったのです。
現在では、両方の評価が混じって、人それぞれというところでしょうか。
では、本当の家康はどのような人物だったのでしょうか。
それを彼のホロスコープ(出生天球図)から解き明かします。
家康は、なんと魚宮の生まれ(太陽)でした。
これによって、すべてが納得できました。
その前に、徳川政権のキッカケとなった「関ヶ原の戦い」をホラリー・ホロスコープ(設時天球図)によってご紹介いたします。
既存の関ヶ原の戦いとは、かなり異なった一面があることが象わされています。
家康はすでに戦う前から「勝つ」ことがわかっていました。
そのうえで、布陣や手をうっています。
では、宝瓶宮占星学の「新ホラリー占星術」から「関ヶ原の戦い」のリーディングをお届けいたします。

One-Point ◆ 宝瓶宮占星学の「新ホラリー占星術」につきましては、「ホラリーで読む三億円事件」をはじめ、番外編「新ホラリー占星術・序曲」にはじまる一連の記事をご参照ください。宝瓶宮占星学の基礎理論の一つ、「数理法則」にもとづいて解釈された「新ホラリー占星学」のいったんが見えてくると存じます。

《 関ヶ原「偽り」の布陣図 》

「関ヶ原の戦い」のホロスコープの前に、次の一般に流布されている布陣図をご覧ください。

関ヶ原の戦い 布陣図

ドイツ軍の参謀メッケル少佐に関ヶ原の布陣図をみせたところ、ウソかマコトかメッケルは即座に、石田三成率いる「西軍の勝ち」と言ったとか。
実際には徳川家康が率いる「東軍」が、わずか半日、約6時間で勝利を手にしたのはご存じのとおりです。
その理由を聞いて、メケッルも「それならそうだ」と語ったとか語らなかったとか。
要は、「布陣図」自体に事実とは異なる「ウソ」があるのです。
もっとも、両方に転ぶ可能性があったので、頭から「ウソ」ともいえないし、かといって「正しい」ともいえないのは、野戦にかけては右に出るものがいない家康の東軍(兵約9万前後)の布陣した位置からみれば、やはり「事実」は、布陣図とは異なり、実質上の敵は正面の西軍(兵約4万数千)のみだったといわざるをえません。

One-Point ◆ 布陣図のみをみれば、東軍(家康側)は、西軍の「鶴翼(かくよく)の陣」どころか囲まれていますので、一見、だれがみても不利です。しかし、西軍(三成軍)として記された小早川秀秋(兵1万5千)は家康側で、毛利秀元(兵1万5千)は中立を決め込んで最後まで動かず、ほかにも家康に通じていた吉川広家ほか、長宗我部盛親、安国寺恵瓊ら(計兵1万2千)は参戦せず。要は、家康は最初から勝ち戦の公算を抱いていました。

《 関ヶ原の戦いのホロスコープ 》

上述のことは、「関ヶ原の戦い」のホロスコープにも象われています。
まずは、当該ホロスコープをご高覧ください。

関ヶ原の戦いホロスコープ

上掲のホロスコープでは、MC(Medium Coeli メディウム・コエリ=天頂:南中点)に海王星が合(コンジャンクション=0度)をとっています。
宝瓶宮占星学の「新ホラリー占星学」では、MC(南中点)は「事件の現場」(現実)を象わします。
そこに、「現実」とは正反対の象意を持つ海王星がのっているということの意味は、ズバリ結論を書けば、関ヶ原の戦いという「事件の現場」は、事実とは異なることが多々あるということを象わします。

One-Point ◆ 関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日、かつて壬申の乱において天武天皇(大海人皇子)が「不破の道を封鎖せよ」と、いちばん最初に命じた、後年「不破の関」と称されるようになったすぐ東側、現在の不破郡で行なわれました。この慶長5年9月15日を現在の暦に直すと、1600年10月21日になります。

《 本筋の関ヶ原と家康の布陣 》

ホロスコープからだけではなく、歴史マニアの方もご納得されるご説明も必要でしょう。
まず最重要ポイントは、関ヶ原の戦いと大阪の陣によって天下人となった徳川家康の立場から「関ヶ原の戦い」をみると齟齬が生じます。
当時はまだ、豊臣政権の五大老の一人です。
一方、秀吉亡き後、着々と勢力固めを行なう家康に危機感を抱いていた石田三成は、自分を殺そうとした秀吉恩家の武断派、福島正則や黒田長政や加藤清正らを排しないと、以前のように豊臣政権で腕をふるえません。
通常、「豊臣vs徳川」という図式で描かれることが多い「関ヶ原の戦い」ですが、それは後年の結果であって、上に書いた事情から、秀吉の子(とされる)秀頼が豊臣政権の2代目を継いでいる以上、あくまでも豊臣政権内の主導権争いが当時の「関ヶ原の戦い」の本筋です。
では、ほかの中立的な諸将は、この対立をどのようにみていたのでしょうか。
家康といえば、秀吉でさえ勝てなかった野戦上手の戦国武将で、しかも豊臣政権内では五大老の筆頭格です。
そういった徳川家康と秀吉子飼いの猛将「賤ヶ岳の七本槍」と将される武断派(七将)が、五大老の一人、宇喜多秀家(57万石、兵1万7千余)らが三成に味方しているとはいえ、事務職である「文治派」の石田三成が率いる大阪方西軍と戦うわけです。
中立の客観的な諸将であれば、どちらに勝ち目があるのかを考えます。
ただし、五大老の一人、野心のない毛利輝元(120万石、大阪城から出ず)が三成方の西軍の総大将となり、秀吉の正室、寧々(ねね)の甥、小早川秀秋(羽柴秀俊:37万石、家康に内応)も、名目上、西軍についていることなどから、諸将は、ようすをみるのが得策なわけです。
慎重で頭のよい家康は、そんな動きはとっくにお見通しで、寧々を動かして小早川秀秋に働きかけ、すでに家康側につく内諾をえています。
毛利輝元は、西軍の総大将とはいえ、三成に担がれただけで、天下獲りよりもお家を守る家訓があることから、家康は、領土安堵を条件に毛利が東軍につく感触をえています。
書いている意味はご理解できますでしょうか。
それゆえ、上掲の布陣図には「ウソ」があるわけです。
でなければ、野戦に長けた慎重な家康が、わざわざ西軍の真ん中、しかも平地に東軍を陣取らせません。
小早川軍は家康に寝返る、西軍総大将配下の毛利秀元軍は東軍に味方する、もしくは非戦とわかっていたために、両軍に左陣と後陣を陣取られても、直接、正面の三成軍に対峙する位置に陣を構えたわけです。

One-Point ◆ 家康にとって、最初から「勝つ」とほぼわかっていた関ヶ原の戦いでした。しかし、そんな家康に誤算が生じます。文治派の三成率いる西軍が予想以上に善戦したことです。これをみて小早川軍はようすみを決め、当初から参戦する気のなかった毛利軍は自軍の温存を図ります。そういった最初の予想と違った展開に、家康も「ツメ」を噛み、自ら陣を前線にすすめ、味方を鼓舞して打開を図ろうと慎重ながらも大胆で奇矯な一面をもった家康らしい行動に出ます。

《 事実とは異なる関ヶ原 》

結果はご存じのとおりです。
朝8時ごろにはじまった関ヶ原の戦いは、一進一退。
お昼12時ごろ、家康軍から鉄砲を打ちかけられた小早川軍がついに動きます。
一気に西軍の横腹を突き、東軍優勢のまま午後2時ごろ三成が敗走して決着します。
とうとう毛利軍2万余は動かず。
西軍に味方しなかったことでお家取り潰しまでにはなりませんでしたが、東軍に味方しなかったために120万石の大身(たいしん)から周防・長門の36万石に減封されます。
これがのちの長州藩(山口県)です。
関ヶ原に最後まで残ったのは、島津軍(兵1,600)でした。
果敢にも東軍の中央突破を図って80名ほどになりながらも関ヶ原を脱します。
これがのちの薩摩藩(鹿児島県)です。
薩長は約300年後、徳川幕府を倒して明治政府を開きます。
そういった薩長を軸とした明治政府が、家康によい印象をいだくはずがありません。
どこまで政府主導かはともかく、徳川家康を悪者に仕立て、「タヌキ親父」などと評判を貶めました。
さて「関ヶ原の戦い」の重要な誤解がもう一つあります。
徳川本軍の「遅延」です。
家康の息子、のちに第2代将軍となる秀忠率いる徳川本軍(兵3万8千)が、真田氏の上田城攻撃に時間をとられて「関ヶ原の戦い」に間に合わなかったとされる「失態」です。
それゆえ、秀忠は家康に会ってももらえなかったといわれます。
この「遅延」も事実とは異なります。
なぜなら家康にとっては「勝つ」とわかっていた戦いです。
また「豊臣vs徳川」ではなく、豊臣政権内の文治派と武断派の戦いでもあります。
家康にとっては、秀吉の子飼いどうし、三成と武断派(七将)を戦わせ、徳川本軍は温存しておき、戦さが長引いて、双方ともに疲弊した時期に、徳川本軍3万8千を投入して豊臣軍を叩き潰せば、一気に徳川政権を誕生させることができます。
頭のよい家康の戦略は、そういう考えだったのですが、予想に反してわすか半日6時間で決着してしまいます。
しかも、西軍総大将配下の毛利軍は動いていません。
勝つのは勝ちましたが、痛し痒しで、家康にとってはけっしてベストの戦果ではなかったのです。

One-Point ◆ どうしてそんなことがいえるのかというと、「関ヶ原の戦い」のホロスコープ(設時天球図)からも、後述する「徳川家康」のホロスコープ(出生天球図)からも、さらには実際の状況からもそういえます。関ヶ原への参戦が主務なら、兵3千足らずの真田兵に3万8千もの徳川本軍は関ヶ原の戦いに遅れてまで執拗にこだわる必要はありません。中山道を背後から突かれないように、真田軍などをけん制しておくのが、秀忠に与えられた当初の任務です。そこに伝令が届いて、急遽、関ヶ原に向かうことになります。すべて家康の計によって「遅延」するように仕向けられたのです。これを秀忠が初陣だからとか、真田昌幸が戦上手だからとか、中山道が悪天候で災いしたとか、ムリに理由を見出そうとすると事実を見失います。

《 関ヶ原のホロスコープ概説 》

簡単に関ヶ原の戦いのホロスコープをご説明しておきます。
宝瓶宮占星学の「新ホラリー占星術」では、事件での犯人側を「意志」にかかわるASC(上昇点)でみます。
被害者側は、客体(対象)であるDES(Descendant ディセンダント=下降点)が象わします。
犯行の動機は、IC(Imum Coeli イムン・コエリ=天底:北中点)が象わし、事件の現場はMC(南中点)が象わします。
基本、そう解釈します。
では、「関ヶ原の戦い」は、どちらが仕掛けたのでしょうか。
それは、家康と三成が、どの「星」や「サイン(宮)」で象わされるかがみえてくればわかります。
答えは、「実務」をあつかう文治派で、豊臣体制を「維持」しようとする「守旧」側の三成は、「土星」で象わされます。
土星は、ときの政権である豊臣家の「中心者」(秀頼)を象わす「太陽」と合(0度)なので間違いのないところです。
さらに土星は、蠍宮の「金星」とも合(0度)で、金星は被害者側を象わすDES(下降点)牡牛宮の共鳴星でもあるために、仕掛けられた側になります。
しかし、ことはそう単純ではありません。
一方、家康は、権勢を持ちつつあるものの、まだ天下人ではありません。
ですが、三成を象わす土星が、権勢を象わす冥王星を衝(オポジション=180度)としていることにご注目ください。
いわゆる「犯人者」側つまり仕掛けた側を象わすASC(上昇点)は蠍宮で、そこには「火星」が合(0度)をとっています。
火星は「軍人」を象わしますので、文治派の三成ではなく、「武断派」の福島正則や黒田長政ら(加藤清正は九州征伐で参戦せず)を象わします。
注目すべきは、この火星が、牡羊宮の「冥王星」と交歓(ミューチュアル・リセプション)をとっていることです。
いわば火星と冥王星が、一致協力しています。
当然、火星が「武断派」を象わす以上、冥王星は「家康」を象わすことが確定します。
つまり、関ヶ原の戦いは、武断派と家康の連合軍側が仕掛けた戦いです。
しかし、そう単純にわりきれないのが「関ヶ原の戦い」のホロスコープです。
「動機」を象わすIC(北中点)にご注目ください。
IC(北中点)には、三成を象わす土星はもちろん、太陽と金星までもが上三分(アッパー・トライン=120度)をとっています。
このことは、関ヶ原の戦いの動機は、実は仕掛けられた側の西軍「三成」のほうにあったことがわかります。
これを通説のように、家康の「ワナ」にはめられた考えるなら、それはそう読めなくもありません。
なぜなら、「現場」を象わすMC(南中点)に、「海王星」が合(0度)をとっているのは上述したとおりで、これは実際の「現場は事実と異なる」ことを象わしますが、同時に、海王星には家康を象わす「冥王星」が上三分(120度)をとっているために、家康の「偽計」を象わすことが読めるためです。

One-Point ◆ ただし「三成をおびき出すための上杉攻め」が偽計そのものとはかぎりません。結果的にそれを家康が想定してしていたとしても、本当の偽計は「勝つ」とわかっていた戦いゆえに、徳川本軍3万8千をわざと遅らせたことです。最後に本軍を投入し、徳川家の勝利にしようとしたことです。
※ちなみに、豊臣秀頼が大阪城から総大将として関ヶ原に出てくれば、武断派もさからえず、勝敗はわからなかったといわれます。ですが家康は、秀頼が大阪城から出てこれないように、ちゃんと手を打っていました。万が一、秀頼が出てきた場合に備える意味でも、徳川本軍を最初から参戦させないほうが安全です。


徳川家康(とくがわ・いえやす)

徳川家康

●徳川家康(天文11年12月26日-元和2年4月17日:1543-1616)こと松平元康(まつだいら・もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
江戸幕府を開いた初代将軍(征夷大将軍)。
織田信長、豊臣秀吉とともに、三英傑の一人。
海道一の弓取りの異名を持つ。
三河国の国人土豪、松平氏の出自。
永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許をえて、徳川氏に改める。
幼名は竹千代(たけちよ)。

《 家康のホロスコープ 》

次に、上述を理解するためにも、家康のホロスコープ(出生天球図)をみておきましょう。
家康は、天文11年12月26日(1543年1月31日)虎の刻に生まれます。
このことから、一般的には水瓶宮生まれ(太陽)だと考えられていました。
しかし、それはこれまで抱いていた歴史上の家康のイメージと、必ずしも一致せず、しっくりとこないのです。
それもそのはずです。
家康の誕生日は、2月10日で「魚宮0度」の太陽だからです。
ユリウス暦では1月31日、現行のグレゴリオ暦に換算すると2月10日。
当時の2月10日は、水瓶宮ではなく魚宮0度(太陽)です。
その太陽は、第2ハウス(室)に位置し、金星と合(0度)、木星と三分(トライン=120度)、天王星と衝(180度)です。
家康のASC(上昇点)は、「慎重」で「忍耐強い」山羊宮。
下記、家康のホロスコープは、新たな発見と同時に、家康の実像に合います。 まずは家康のホロスコープをご高覧ください。

徳川家康のホロスコープ

One-Point ◆Wikipedia - 徳川家康」などには、家康の誕生日が、天文11年12月26日(1543年1月31日)といったように掲載されています。間違いではありません。ですが、1月31日は当時のユリウス暦です。現行のグレゴリオ暦に換算すると、2月10日になります。これまた現在でこそ2月10日は水瓶宮ですが、1582年以前は、グレゴリオ暦換算では3月11日前後が「春分の日」になります。すなわち「牡羊宮0度」です。そのため2月10日は太陽「魚宮0度」になります。グレゴリオ暦では「春分の日」を3月21日にしたために、10日(約10度)ほどのズレが生じたわけです。

《 情愛に満ちた一面を持つ家康 》

家康のホロスコープを手短かに解説しておきます。
山羊宮のASC(上昇点)、第2ハウス(室)の太陽、さらに牡牛宮の月といった、生き方や性格や感受性をもった家康は、「シビア」な「現実主義者」で「忍耐力」をもつことになります。
同時に、太陽が天王星を衝(180度)とし、さらに月が天王星を下三分(ロウアー・トライン=120度)としていることは、その一方、家康が案外と「改革的」な一面をもち、ときに「奇矯(突飛)」で「大胆」な行動をとることを意味します。
それが、目の前を通り過ぎた武田信玄軍、約4万に対して、1万ほどの兵で戦さを望んで敗退した三方ヶ原の戦いや、関ヶ原の戦いにおいて、混戦の中、自ら山を降りて前線に陣を張ったことなどに現われています。
それはともかく、新たな発見を2つご紹介しておきます。
一つは、魚宮の太陽が金星と合(0度)で、木星を上三分(120度)にしていることです。
これは家康がたいへんに情愛にあつく、温和で、おおらかで寛容な性質を併せもっていることを象わします。
「腹黒いタヌキ親父」という悪評につうじる、いわば計算高いともいえるシビアで現実的な判断ができる一方で、生き馬の目を抜く戦国時代においては、人から誤解されるほど温和で、善意に満ちた性質を内面にもっていました。
当然、これは悪意ある人々や敵対者からは、逆に「誤解」されてしまいます。
このような優柔不断ともいえる一面をもつやさしさのある家康は、上述いたしました山岡荘八の大著『徳川家康』が描き出しています。
荘八が描いた家康像のほうが、案外と正鵠を射ているかもしれません。
ついでに書けば、水星と冥王星の合(0度)を水瓶宮にもちます。
これはかなりクールで、頭の切れる家康だったことを象わします。
一見、大胆で無謀に見える突飛な行動も、案外と周囲をみて、綿密に計算したうえで行なっていたことになります。
こういった非凡な頭のよさが、周囲に理解されず、「下衆のかんぐり」を招くことは多々ありますし、同時に人類歴史上、類をみない平和で安定した徳川300年の礎を築いたことにつながります。
最後に、もう一つご紹介いたします。
魚宮0度の太陽、蠍宮0度の木星、山羊宮のASC(上昇点)を生まれもつ家康は、蟹宮生まれ(太陽)の情的な織田信長とは、多少の緊張を伴いつつ、パートナーシップ(同盟)を組める良い相性をもっていたことを象わします。
ワンマンですが身内にやさしい信長を、家康は気にならずにしぜんと寛容に受け入れ、情愛と同時に冷静さをもって接していたことがわかります。
さらには、信長の牡羊宮の月は信長自身の火星と三分(120度)で、悪気なく「瞬間湯沸かし器」のようにときに爆発的な怒りをみせますが、家康の牡羊宮の火星と合(0度)なので、気質がよく合い「意」や「行動」をともにできる相性でした。
これは、一方で信長が、家康の大胆な気性や気の強さを自分のことのように気に入っていて「ウマ」があったことを象わします。
全部が全部、二人の相性が良いわけではありませんが、これらの相性は、二人がお互いに情や気脈を通じ合い、信長に寛容な家康とともに、二人が戦国乱世を駆け抜けたことを意味します。

One-Point ◆ 関ヶ原の戦いの30年後、徳川第3代将軍家光の世に、徳川政権が安定していくとともに時代は「宝瓶宮時代の影響圏」に入ります。戦国乱世は完全に終わり、1強多弱ながら、宝瓶宮時代につうじる「幕藩体制」(連合国家)による天下太平がはじまります。日本らしい文化の熟成がもたらされたのも江戸時代の太平ゆえです。同時に、水戸学により、日本の国体「水瓶宮」の基となる「天皇制」への再評価が、萌芽をみせます。そのような「現代日本」への転換点となったのが「関ヶ原の戦い」です。



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