宝瓶星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―

倭国東征と丁未の乱
[古代史解明25]
― 畿内国ヤマトから「大倭」へ ―

HOME[古代史解明シリーズ Vol-2] 倭の五王 > [シリーズ 25] 倭国東征と丁未の乱

「皇室典範」の根拠となった『日本書紀』の真贋

●第1稿 2026年 7月 5日 アップ。


次期天皇をめぐって、明治に“男系男子”が定められ、敗戦後にはGHQによって日本の弱体化のために改訂された「皇室典範」が話題です。

事実上の万世一系は、第42代とされる「文武天皇」(683-707)へのご譲位によって始まりました。

『日本書紀』の編纂は、万世一系の定着のため、また皇親政治を行なった天武天皇の皇統の正統性のため、さらには大宝律令による統一独立国家「大和」をスタートするためのプロパガンダとして、同時にその編纂方針の下にある虚実入り混じった古代史の記録として行なわれました。

面白いのは、動乱の7世紀以前、6世紀末587年まで、ヤマトをゆるやかに治めていたのは物部氏だったことです。

同じく『日本書紀』によれば、紀元前660年と推測される“神武東征”に際して、物部氏から“国譲り”を受けて初代天皇による日本が建国したとされていることです。



《 文武天皇:倭根子豊祖父天皇 》

紀元前660年からの万世一系と、7世紀の天武天皇と持統天皇の孫の文武天皇から始まった歴史上の万世一系と、どちらが史実だと思われますか。

「文武」という漢風諡号(かんふうしごう)は、のちの平安時代になって藤原氏の一族である淡海三船(おうみのみふね)によって新たに定められたもので、『日本書紀』編纂当時は「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢ の すめらみこと)と申し上げます。

この国風諡号で「倭」というのは、7世紀以降の“大和”のことで、原義は九州倭国に由来します。

九州倭国は、大陸や半島から離れた安全な都を求めて、当時は大阪湾から船で行くことができた奈良湖が広がり、かつてはカモメが飛んでいた大和盆地に東征しました。

6世紀末の587年、丁未の乱(ていびのらん)によって物部氏に勝利した九州倭国、蘇我大王家は「大倭」(おおやまと:のちの「大和」)として畿内国ヤマトを吸収合併しています。

一方、「根子」(ねこ)は、国家的には倭(大和)の根っこであることを意味、「祖父」(おほぢ)は、皇統における始まりの天皇であることを意味します。

石上神宮
●かつて畿内国ヤマトをゆるやかに治めていた物部氏の総氏神、日本最古の神社の一つ、七支刀でも知られる「石上神宮」(天理市)。

One-Point ◆ 史実は単純ではなく、紆余曲折を経ます。物部中臣連合に勝利して畿内国ヤマトの支配者となった蘇我本宗家は、入鹿の時代に中大兄と中臣鎌子こと藤原鎌足のクーデターによって滅ぼされます。乙巳の変(645)です。後年、中大兄は天智大王となり、崩御後に大津京を継いだ嫡嗣の大友王子(648-672)との壬申の乱(672)に勝利した大海人王子こと第40代と記される天武天皇(?-686)は、新たな国づくりを目指して強力なリーダーシップによる皇親政治をはじめました。



《 『日本書紀』の名場面 》

「天武天皇紀」(下巻)8年の項に、『日本書紀』で最も美しいシーンが描かれています。

「吉野の盟約」と呼ばれるもので、ご即位された天武天皇は后や我が子また壬申の乱を戦った天智の子らまでも腕に抱いて、「千年のちまでも二度と皇位争いを起こさない」と誓います。

それが万世一系を記した『日本書紀』の編纂に繋がっていきます。

天武崩御の後は、リリーフとしてご即位された「持統天皇」が、何度も吉野に行幸されているのは、天武の遺志を次いで、嫡嗣だった草壁皇子(662-689)が早世した今、孫の文武天皇(683-707)に皇位を継がせ、何としても万世一系を定着させるためです。

有名な「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」と持統が詠んだのもそれゆえです。

ちなみに、吉野の盟約に参加していた、天智の第7王子志貴王子(668?-761)は、天武系の皇統が途絶えた後、その子の白壁王が第49代光仁天皇(709-782)としてご即位されたため、現皇室の御祖(みおや)となっています。

また、吉野の盟約に共に参加していた天武の第6皇子当時3歳だった舎人親王(676-735)は、『日本書紀』編纂の総裁を務めています。

One-Point ◆ 古代日本列島は、畿内ヤマト一国ではなく複数の国邑がありました。紀元前7世紀から“神武天皇”にはじまる万世一系で、統一された国家「大和」だったという美しいお話は、『日本書紀』が創作したプロパガンダです。



《 「和を以て貴しとなす」の真意 》

『日本書紀』に記される神武東征の出発地は、その編纂方針から大陸の冊封下にあった九州倭国ではなく、後年、南九州の現宮崎を“日向”の地名に変えさせています。

史実は応神天皇がお生まれになった筑紫であり、6世紀末の九州倭国によるヤマト東征です。

九州こと「筑紫嶋」からきたため、嶋大臣(しまのおおおみ)と呼ばれた蘇我馬子(551-626)は事実上の大王として畿内ヤマトを治めましたが、奢りたかぶった3代目入鹿のときに乙巳の変(645)で滅ぼされたのはご存じのとおりです。

後年、天智大王(中大兄)による白村江の戦い(662)の大敗北によって、唐や新羅からの侵攻に備えて、早急に天皇体制による臣民一体の統一独立国家「大和」を和をもって築こうとされたのが、『日本書紀』に第40代と記される天武天皇です。

その遺志を継いだのが后の持統天皇です。

各地の豪族らも、『日本書紀』に記される“初代神武天皇からの万世一系”はウソだと知りつつも、国防のために受け入れ統一独立国家「大和」の建国に協力しています。

One-Point ◆ その一方で、多くの豪族らは自らの歴史を口伝また今で言う古史古伝として残していますが、当時は決して公にすることなく和をもって天皇のもと“国難”に備えて新しい国づくりに寄与しています。


《 明治新政府の近代国家日本の“礎” 》

各地の豪族らが天皇のもとに和を優先して国づくりにいそしんだのも、『日本書紀』が初代神武天皇に続く欠史8代とされる天皇紀において、各地の豪族らを天皇との血縁として記録しているためです。

そのような『日本書紀』を近年、不磨の大典「大日本帝国憲法」とともに神代から続く現人神(あらひとがみ)の「天皇」として、国家神道を創立したのが明治新政府です。

彼らは西洋列強文明の根っこにキリスト教があることを見抜き、国家神道を“キリスト教”に、天照大御神を“創造神”に、現人神の天皇を“イエス・キリスト”になぞらえて、西洋文明に対抗できる近代国家をめざしました。

すなわちキリスト教の“聖典”『聖書』のごとく、『日本書紀』は用いられ国民が信じるようになった経緯があります。

ご注意! 『日本書紀』を否定しているのではありません。

精神的に重要ですが、古代の史実にそって全部が書かれたものではないという事実の解明です。

One-Point ◆ その精神性は、今日の「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)の実働社会に必要でした。時代の流れに伴なう「天運」がますます日本に伴ない歴史的なプレゼンス(存在感、影響力)を発揮していくことになります。そのことは、人類歴史の変遷をもたらす「アストロロジカル・エイジ」(星学的時代区分)からリーディングできる事実です。








【↑上に戻る】

※当ページの内容は著作権法により保護されております。無断使用はご容赦お願い申し上げます。

Copyright(C) 2005-2026 Aquariun Astrology - Seiji Mitoma All rights reserved.