宝瓶星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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●第1稿 2025年 5月13日 アップ。
雑文です。
急に気になったのでグーグル・マップでどれくらいの距離があるのか調べてみました。
驚きでした。
直線距離で1kmとなかったからです。
子どもの頃、毎日眼前にふつうに見ていた『豊後風土記』にも出てくる比佐津媛(ひさつひめ:久津姫)を祀る「会所山」(よそやま)までの距離です。
国の重要文化財に指定されている“卑弥呼の鏡か?”といわれる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)が発見されたのも、その付近で、やはり1kmほどの距離です。
何も知らずに、当たり前に少年期を過ごしていたのですが、歴史的な場所にふつうに居たようです。
第43代元明天皇(661‐721)の勅命によって各地で奏上されたのが風土記(古風土記)です。
今では、わずか5つほどの写本しか残っていません。
それも『出雲国風土記』を除けばごく一部のみです。
なぜ、自分たちの国のいわれや古代の記録なのに、残っていないのでしょうか。
推察できる理由は、大和朝廷すなわち『日本書紀』の記述に沿うように書き換えさせられたからです。
その中で『豊後風土記』が比較的に残されている理由は、簡単にいえば時の大和朝廷と近かったからです。
●錆びたり剥離せずに残っていた部分を元に日田の有志の方々がCGで1989年に復元したもの。
One-Point ◆ 『日本書紀』の編纂を命じたのは天武天皇です。天武が勝利し、政権をとった「壬申の乱」(じんしんのらん:672年)で命を投げ打って戦い、勝利をもたらしたのが大分君(おきだのきみ)です。
大海人皇子(おおあまの おうじ:のちの天武天皇)が幼少のみぎりに育てられたのは尾張で、そこが海人族(あまぞく)の地で安全だったからです。
海人族の海部氏の国で、丹後や出雲また豊後から移動してきたようです。
出雲大社(いづも おおやしろ)の古称は、明治まで「杵築大社」(きつき たいしゃ)でした。
大分県の国東半島(くにさきはんとう)の根元に杵築市(きつき し)があります。
かつて豊後には広大な北海部郡と南海部郡がありました。
また、丹後半島の伊根(いね)に残る舟屋(ふなや)が、同様に豊後の瀬戸内海沿いのリアス式海岸状の臼杵市(うすき し)や佐伯市(さいき し)にあったと言われています。
One-Point ◆ 極めつけは、天武系最後の天皇となった第48代称徳天皇(718‐770)が、後継を決めるのに豊後の宇佐八幡宮に託宣を伺っていることです。奈辺が天武天皇のルーツにかかわっているためです。
【参考】 皇統が天武系から変わると、遠いという理由もあったのでしょうが、京都の石清水八幡宮に勧請され移っています。
賛否は承知ですが、九州倭国のトップの蘇我氏(本名不詳:たぶん阿毎氏)を滅ぼすクーデターを共謀したのが、中大兄ことのちの天智大王(「天皇」号は天武天皇から)です。
『日本書紀』には、「中大兄」とは記されていますが、“中大兄皇子”とは記されていません。一方、大海人皇子とは記されていますので、当時は大海人皇子が正統です。
九州倭国の海人族は、中大兄の無謀な海外での戦さ「白村江の戦い」に駆り出され、壊滅的な大損害を被っています。
そのため、天智の子:大友王子(追諡:弘文天皇)との戦いに際して、ルーツを九州に持つ大海人皇子(天武天皇)側について、大分君に見られるように命掛けて「壬申の乱」を戦い、勝利に導いています。
という語られることのない経緯がありまして、天武天皇は自らの皇位の正統性を記す『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じています。
もっとも、その後の天皇の御世や藤原氏によって書き改められた箇所があり、史実が分からなくなっていると考えられます。
One-Point ◆ 戦前は“現人神”とされた皇統に触れることは不敬罪に当たりました。戦後でも偉大な昭和天皇が尊敬する人物に“天智天皇”を挙げていたため、このようなお話を書くことは憚られてきました。
天武系が称徳天皇(しょうとく てんのう:718-770)で途絶えると、皇統が変わります。
壬申の乱を戦った大友王子(追諡-弘文天皇:648-672)の異母弟:志貴王子(668?-716)を御祖(みおや)とするご老体、酒浸りの白壁王こと光仁天皇(709-782)がご即位され、今日の皇統に繋がっています。
もっとも、粛清を避けるために酒に浸ったという説もあり、当時の状況を考えれば中らずと雖も遠からずかもしれません。
ということもあり、右の本文に書いた事情もありまして、次のようなお話を聞きました。
九州に来て、とある集まりで話の流れから「天武派か天智派か?」とその会のトップに問われたそうです。
よく分からないのでテキトー答えたら、「なら敵だ!」と言われたというのです。
そういうことなのね。
ということで、豊後は、第40代天武天皇と后の第41代持統天皇(天智大王の王女)が興した大和朝廷とは因縁が浅からず、『豊後風土記』も『日本書紀』の意向に沿ったウソかマコトか話半分の記述になっているといえます。
その中に、熊襲征伐で知られるヤマトタケルの父:景行天皇を「会所山」(よそやま:海抜164m、実質74m)で出迎えた比佐津媛(ひさつ ひめ)のエピソードが記されています。
現在は、山頂に小さな祠のみの比佐津媛神社がひっそりと建っていて、言い伝えでは、当神社が廃れるとき日田も滅ぶのだとか。
ということがあってか、10数年程前に修復されていました。
で、会所山づたいの山麓と言ってもいい1kmほど東に進んだ場所で“卑弥呼の鏡”と一部で騒がれる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)が出土しています。
One-Point ◆ 久大本線の三芳駅付近で工事中、1933年に出土したものです。魏の曹操が持っていた鉄鏡と同じだと中国の学者がお墨付きを与え、すわ倭の女王:卑弥呼に送られた鏡かと話題になりました。
マズイ!
邪馬台国畿内説を妄信する歴史学会の学者たちが、“卑弥呼の鏡”だと決して認めることはありません。
認めてしまえば、邪馬台国が北部九州にあったことがほぼ確定し、国から奈良/大和の研究費が削減されるだけでなく、自分たちの学説が崩れてしまうからです。
ということで、日田古代史研究会の方々も頑張っているのですが、左巻きの多い歴史学会のマスコミとも手を組んだ権力には、抗いがたいものがあるようです。
いずれにしても、魏の曹操が持っていた鉄鏡と同じ豪奢な造形の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が豊後で出土したということは、魏や卑弥呼の時代に、北部九州とのかかわりが深かったことを意味し、自ずと見えてくるものがあるのではないでしょうか。
One-Point ◆ ま、今後の「霊識開元」の複合ディレクションによって、双魚宮時代の左翼系アカデミズムは崩壊します。裏デレクションが「日本の支配体制の変革」となっているため、学術支配も例外ではありません。
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