宝瓶星学 ―宝瓶宮時代の新しいアストロロジー―

連載 邪馬台国は馬臺-その11
番外編:日出処の天子の正体
「阿毎多利思比孤」
− ヤマト、大倭、大和、日本へと変遷 −

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今日の日本へと続く独立と激動の揺籃期

↑ 第2次遣隋使:小野妹子。
煬帝からの“返書紛失”も処分なし。

●第1稿 : 2020年11月12日アップ
●改訂稿 : 2025年 6月 5日アップ


「卑弥呼」と「邪馬台国」は、シナ(China、中国)の古代史にしか記されていません。

そのひとつ『旧唐書』(くとうじょ)には、「倭国伝」と「日本伝」が併記されています。

ところが、書き改められた次の『新唐書』(しんとうじょ)になると「日本伝」のみになります。

そこには「倭国」と「日本国」とが“合併”また倭の名を嫌って“国名変更”したといったことが記されています。

唐の直前の時代また唐代にそういうことが起きていました。

《 九州「倭国」の首都移転 》

史実は、唐がはじまる直前の6世紀まで、九州「倭国」と、畿内「ヤマト」が日本列島に並存していました。

7世紀に入ると、九州「倭国」と畿内「ヤマト」の“合併”によって、今は使われなくなった「大倭」(おおやまと)が誕生し、唐の時代(618年〜)には「大和」から700年以降は「日本」になっています。

倭国とヤマトの“合併”とカッコつきで書いたのは、事実上は九州「倭国」による首都移転となる「東征」だったからです。

ですが、国際情勢に通じた九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)の考えは別にありました。

One-Point ◆ 阿毎多利思比孤は、合併後『日本書紀』にも記される(第2回)遣隋使で「日出処の天子」と名乗った本人です。支那の冊封下から離れて日本を独立させた立役者で、此度、隋の2代目煬帝(ようだい)を激怒させた本人です。




《 第1回遣隋使が日本独立の原点 》

驚きの史実を暴露しています。

ついてこれますでしょうか。

首肯いただけなくても、論旨はご理解いただければと存じます。

神武ご即位の当初からの統一独立国家「大和」だったとウソを起源として記す『日本書紀』は、そのため九州「倭国」が派遣した第1次遣隋使は記すことができません。

しかし、『日本書紀』が記さなくても、外交記録なのでシナの正史『隋書』に残されています。

邪馬台国畿内説の学者らは、例によってご都合主義の解釈を“学術”の権威のもと、ウソの歴史教育をたれ流してきました。

One-Point ◆ 長年の冊封下から倭国が離れることは、当時の隋にとって不名誉でした。そのため、記録には倭王が訳の分からないことを言ってきたかのように記しています。一方で、それに対する高祖文帝の言は「甚だ義理なし」と正直です。



《 九州「倭国」の軍事力 》

知っている範囲で少し解説をします。

卑弥呼の時代から九州「倭」(倭国)は、大陸の動きを注視していました。

海を隔てているとはいえ、当時は軍事大国のシナでしたので、判断を誤れば攻め込まれて国が滅ぶかもしれない時代だったからです。

その点、当時の畿内「ヤマト」は、大陸からも遠く、また内陸部ゆえ至極平穏な祭祀文化圏でした。

戦後の日本史では教えられませんが、「倭の五王」にみられるように、高句麗にまで攻め込むほどの軍事力くらい九州「倭国」は相応に備えていたのです。

このことを戦後のように語らなかったり、平和ボケして忘れると史実が見えなくなります。

One-Point ◆ 当時の歴史学者らは軍事的な視点に欠けます。一例ですが、南は東の間違いだなどと畿内に邪馬台国を持ってくるために言い募ります。おいおい「魏志倭人伝」は観光案内じゃないっつうの。戦乱の三国志の時代でもあり、軍事偵察の記録がベースなので、方角や行程を間違うことはありません。



●第1次遣隋使は九州「倭国」が派遣(600年)。第二次遣隋使は畿内「ヤマト」との合併後に派遣(607年)。


《 遣隋使派遣のウラ事情 》

九州「倭国王」阿毎多利思比孤の透徹した読みは、高句麗との激烈な戦争を繰り広げていた隋が今なら動けないことを見越して、第1次遣隋使を派遣していることです。

隋の高祖文帝に「冊封下から離れて独立する」と述べても、攻め込んでくる余力はないと見切ってのことです。

事実、軍隊ではなく、官史裴世清(はい せいせい:裴清とも)を派遣して、倭国王に謁見する名目で国情視察を行なった程度です。

お話は戻りますが、『隋書』に記される「日出ずれば、すなわち理務(政務)を停め、我が弟に委ねん」と倭国王が述べたことにして、長年の冊封下から離れると言った旨は残せませんでした。

この真意は、九州「倭国」の主権を畿内ヤマト国(弟)に“譲る”(国譲り)という名目で支那の冊封下から離れて、独立するということです。

実質は、すでに6世紀末の段階で、九州「倭国」は物部連合を滅ぼして畿内ヤマトへの東征は果たしていました。

そのうえでの第1次遣隋使の派遣です。

といったような経緯がありまして後年の『日本書紀』には第2次遣隋使が派遣されたときの記録が残されています。

事実は、合併後の「大倭」が派遣したもので、自ら「日出処の天子」と述べ“日没処の天子”と揶揄した二代目煬帝に、対等の天子として独立を通告しています。

One-Point ◆ ちなみに、“日没処の天子”と蔑まれて激怒した煬帝が、大倭からの使者(小野妹子)に託した国書を『日本書紀』がつまびらかにすることはありません。九州「倭国」や倭国王阿毎多利思北孤の存在がバレてしまうため奪われて紛失したことにしています。




《 創られた「聖徳太子」の意図と正体 》

瑠々述べてまいりましたが、史実の一端をご理解いただけましたら幸いです。

男王:阿毎多利思比孤は“聖徳太子だ、などとバカなことを言うんじゃありません。

まあ、推古女帝と言うよりはマシですけどね。

事実は、すでに九州「倭国」で導入していた「官位十二階」など倭国王の数々の偉大な業績を記せないため、『日本書紀』は“架空”の「聖徳太子」を創作して彼の業績に移し変えています。

“生まれてすぐに言葉を喋った”など数々の驚愕のエピソードを記し、日本書紀編纂者がワザワザ“この人物はウソ(創作)ですよ”と疑問を持つように記したものを、「わぁースゴイ、偉人がいた」と喜ぶのは、一般人はいいとしても、学者文化人までもが信じるのは、職業選択の自由は保証されていますが、道を間違えていない? と疑問に感じます。

One-Point ◆ ちなみに『日本書紀』の完成は720年です。第40代天武天皇の孫、第42代文武天皇の御世の700年に「大宝律令」によって国号を「日本」と定めています。『新唐書』はこれをもって「倭国伝」をなくして「日本伝」のみに変えています。

※ご注意) 学校のテストなどで、こんな解答をしても点数はもらえません。






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