宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

ホロスコープ・リーディング
基礎から学ぶホロスコープ
第2回:12サイン(宮)の登場

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ホロスコポスから四角い12サインのホロスコープへ

カルデア人による古代オリエント占星学は、カルデア人の国・新バビロニアを含む周辺地域の統一と分裂によって、フィロソフィー(愛智=哲学)が萌芽した古代ギリシャに伝わりました。そこにおいて、当時のフィロソフィー(哲学)による世界観が加わり、「古典占星学(術)」への道を歩みはじめます。

●第1稿 : 2010年 4月 7日アップ

《 上昇する星による最初の占星術 》

先回、「第1回:ホロスコポス=時の見張り番」に書いたように、カルデア人たちは、星を観測し続けているうちに不思議なことに気づきます。
「火星が上昇しているときに生まれた子どもは、ケガをしやすく短命である」とか、「月が上昇しているときに生まれた子どもは、幸運で長寿である」といったことです。
今では上昇する星だけでは正しいリーディングにならないことは分かっていますので、上に書いたことが必ずしも正しいわけではありません。
ちなみに、上に書いたことを信じてしまった人は、西洋占星術を頭から信じてしまう可能性が高いので気をつけたほうがよいでしょう。
しかし、彼らは星の上昇から、季節の始まりが分かるだけではなく、人の運勢にもかかわりがあることに気づきました。星が地上の出来事にも「影響を与えている」といったことです。
実際は「星が、人や地上に影響を与える」ことはありません。
星は、象わしているだけなのです。
この時代は、まだ今日のホロスコープのような体系的な考え方はなく、東の地平線上に上昇する星による判断というのが最初の占星術でした。
東の地平線上に上昇した星は、時間とともに天空に昇っていきます。時間が経てば、また、新しい星が東の地平線上に昇っていくことになります。ホロスコポス(時の見張り番)であるカルデア人たちは、星の動きや、それに伴って地上に起こる出来事を記録していました。

One-Point ◆ 星が地上の出来事に「影響を与える」という表現は、叙情的に用いることはできるとしても、実際にはありえません。星を読む(リーディングする)ことによって、いわば「宇宙意志」を意図を知ることができるわけです。しかし、西洋占星術は「宇宙意志」の正しい理解がスッポリと抜け落ち、単に当たる・当たらないの「占い」ゆえに「オカルト占星術(神秘占星術)」なのです。


●Astrology アストロロジー

英語で、西洋占星術は Astrology(アストロロジー)、占いは Fortune(フォーチュン)です。
Astrologyという英語には、どこにも「占い」という表現はありません。
しかし、今日の西洋占星術は、間違いなく「占い」です。信じる・信じないの「占い」に堕したとさえいえます。
本来の占星学は Astrology、すなわち「Astro(天体、星の〜)」+「Logy(学)」、星を観測する学問でした。
ちなみに天文学は、Astronomy(アストロノミー)、ギリシャ語の「Astron(星)」+「nomos(法則)」が語源で、星の法則を研究する学問です。

《 戦争による統一と分裂、占星術の伝播 》

このサイトをご高覧の皆様であれば、紀元前の約2,000年間、もう少し正確にいえば、紀元前2,330年頃から紀元前170年頃までを白羊宮時代ということは、ご存じだと思います。
白羊宮(はくようきゅう)というのは牡羊宮のことで、白羊宮時代は、牡羊宮とその共鳴星である火星の象意によって人類文化歴史が営まれてきた時代です。
牡羊宮の象意を簡単にいうと「頭(王)」や「正義」であり、火星は「衝動」や「闘い(戦争)」といった行動を象わします。
事実、白羊宮時代、占星学が発祥した古代オリエントであるメソポタミアやパレスチナ、およびエジプトやトルコ、ギリシャといった地域では、何度も「戦争」が行なわれていました。当時、牡羊宮や火星は、今以上に「王」や「トップ」また「戦争」の象意を持っていたのです。
この幾たびもの「戦争」によって、併合や分散、統一や分裂が繰り返され、カルデア人による古代オリエントの占星学(天体学=Astrology)はエジプトやギリシャなど周辺国家にもたらされていきました。
それは、敵を研究するという意味においても、また征服によって文化・技術・知識・人材が伝播移動するという意味においても、戦争にはそういった副次的な側面があるのは事実です。

One-Point ◆ 紀元前7世紀頃、アッシリアによって、エジプトを含む古代オリエント世界は統一されます。その後、分裂すると次に紀元前5世紀頃、アケメネス朝ペルシアによって再び統一されます。それが崩壊した後、アレクサンドロス帝国によって統一。その分裂後は、大ローマ帝国の建国によって白羊宮時代は幕を閉じます。


●プラトン年、正確には何年?

黄道と赤道の交点である春分点が、黄道上を約2万6千年かけて1周していくことを発見したのは、ギリシャの天文学者ヒッパルコス(紀元前190年頃〜紀元前120年頃)です。
この宇宙的周期をプラトン年=大年(グレート・イヤー)と呼びます。
理論値では、プラトン年は 25,920年(6×12×360=2,160×12)です。
天文学では、現在の歳差運動から約25,771.5年と計算しています。
ただし、歳差のブレが考えられるために、0.6%の誤差は、どちらが正しいというよりも許容範囲だといえます。

《 双魚宮時代の西洋占星術への道 》

白羊宮時代から双魚宮時代に変わったのは、紀元前170年のことです。
宝瓶宮時代の根拠」にも記したように、プラトン年を発見したギリシャの天文学者ヒッパルコスの生存中です。
時代が白羊宮時代から双魚宮時代に正式に移り変わったために、その見えざる波動の変化を無意識のうちに感じたヒッパルコスは春分点の移動を発見しました。
ただし、人類が双魚宮時代の影響圏に入るのは、その360年前の紀元前530年頃からになります。白羊宮時代の25度にあたる位置です。
この頃から次第に、古代ギリシャに伝わったカルデア人の古代オリエント占星学は、ギリシャの思想・哲学を取り入れた古典占星学(初期の西洋占星術)へと変貌を遂げていきました。
ときあたかもアケメネス朝ペルシア(紀元前550年-紀元前331年)によって古代オリエントとその周辺地域は統一され、一大勢力圏を築いていった時代です。このアケメネス朝ペルシアには、カルデア人の新バビロニアも、またギリシャ(北部)も含まれていました。(下図ご参照)
また、紀元前492年〜前449年にかけて起こったペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアとギリシャ(南部)の闘いです。
続く紀元前431年〜紀元前404年のペロポネソス戦争は、ギリシャどうしアテネ(東部)とスパルタ(西部)の闘いです。
双魚宮時代前史のこの時期、これらの戦争は、「人生」や「世界」を考えるフィロソフィー(愛智=哲学)を魚宮の当時の共鳴星だった思想・哲学を象わす木星の象意とも相まって生み出していったのです。

One-Point ◆ ソクラテス(紀元前469年頃〜紀元前399年)やプラトン(紀元前427年〜紀元前347年)などの先哲、また医聖や医学の父と呼ばれ、占星学(天体学=Astrology)を高く評価したヒポクラテス(紀元前460年〜紀元前377年)らは、この時代の人です。
カルデア人の占星学は、当時の深刻な時代状況を受けて、彼らの思想や哲学、また古代ギリシャの世界観に基づく「古典占星学」へと変貌を遂げていきます。


アケメネス朝ペルシア


One-Point ◆ アケメネス朝ペルシア(紀元前550年〜紀元前331年)は、キュロス大王が建国。多民族を統治し、ダレイオス1世の最盛期に、全オリエントを統一しました。西はリビア、エジプトから、東はパキスタン、北はブルガリアにまでおよぶ至る広大な版図を築いています。


●古今の黄道13星座

アラトス(紀元前315年〜紀元前240年)は、ギリシャにおいて観測できる44個の星座を長編の詩にしたためました。
これは後年、ローマ文化圏にも影響を与えていきます。
この中で、おひつじ、プレアデス、おうし、ふたご、かに、しし、おとめ、てんびん、さそり、いて、やぎ、みずがめ、うお、といった当時の黄道13星座が取り上げられています。
現在では、プレアデスがなくなり、へびつかい座がさそり座といて座の間に含まれて、黄道13星座をなしています。

《 ギリシャの黄道12星座(13星座) 》

古代ギリシャに伝わった占星学は、大きく二つの要素が取り入れられました。
一つは、ギリシャの黄道12星座(13星座)です。
もう一つは、ギリシャ思想や哲学に基づく解釈です。
ギリシャの黄道12星座は、現在、西洋占星術で使われるサイン(宮)名と同じです。
これに当時はプレアデス(星団)が星座として扱われていましたので、全部で黄道13星座でした。
プレアデス(星団)は、おうし座にある肉眼でも確認できる5〜7個の明るい星の集まりで、日本では「すばる(昴)」として知られています。
紀元前1,200年頃、現レバノンに定着した海上貿易を行なうフェニキア人は、このプレアデスを目印に航海をしたといわれています。彼らはエジプトやギリシャとも交易を行ない、異国の文物を伝えていましたので、その影響でしょう。
星座が世界共通となったのは、今日からわずか80年前の1931年のことです。それまでは国や地域によって星座の定め方も呼び方も部分的とはいえ異なり、130個ほどの星座が乱立していました。
占星学が古代ギリシャに伝わった紀元前5世紀当時、民族によって多少なりとも星座の区分や呼称が異なっていたのは当然でしょう。
しかしながら、古代ギリシャの当時の星座名が、今日の西洋占星術にそのまま残っているということは、そこにおいて西洋占星術の基礎が築かれていったことを意味します。

One-Point ◆ 紀元前2世紀になると、先に挙げたヒッパルコスは、その卓越した天体観測から46星座(49星座とも)を決定します。それを受けて2世紀にプトレマイオス(英名:トレミー)は、『アルマゲスト』によって48星座を定着させました。これはそのまま今日の世界共通88星座に含まれています。


●2世紀当時のホロスコープ

四角だったホロスコープ

この四角いホロスコープは、2世紀当時のものです。
第14代ローマ帝国皇帝となったハドリアヌス帝(在位117年〜138年)のホロスコープで、水瓶宮の生まれであることが読み取れます。

《 均等に12等分された12サイン(宮) 》

大前提として知っておくべきことは、当時は星座(Constellation)=サイン(Sign 宮)だったことです。
サイン(宮)の起点である春分点は、当時、おひつじ座にあったので、おひつじ座(Aries)がそのまま、牡羊宮(Sign of Aries)でした。
しかし、最も重要なことは、古代ギリシャの思想・哲学が加味されたホロスコープ解釈へと進展し、体系化されていくことによって、等分化された「サイン(宮)」に変貌していったことです。
等分ではない12星座(Constellation)の異なる幅をそのままホロスコープの12サイン(宮)として使うのであれば、「おひつじ座(Aries)」の呼称のまま使うほうが便利がよく、わざわざ「牡羊宮(Sign of Aries)」とサイン(宮)を設ける必要はないのです。
まして、ピッパルコスによって春分点の移動が明確になった以上、「おひつじ座」のまま使い続けるのは都合が悪く、「牡羊宮」とサイン(宮)によって区別するのは当然です。
当時は、現在のように円ではなく四角いホロスコープでしたが、星座の名前は流用したものの、哲理的な解釈によって等分化された12サイン(宮)になりました。
ちなみに、現在のインド占星術(ジョーテッシュ)も四角いホロスコープです。
インド占星術は、当時の春分点(おひつじ座)のままの位置をサイン(宮)の起点として使っています。
西洋占星術は、約72年に1度ずつ移動する春分点をサイン(宮)の起点として使います。そのため、2010年現在、うお座〜みずがめ座付近にある春分点の位置がホロスコープが始まる牡羊宮の0度になります。そこを起点に30度ずつ12サイン(宮)を均等に定めているのはご存じのとおりです。

One-Point ◆ インド占星術と西洋占星術は、現代では一星座ほどずれたサイン(宮)になっています。このままあと1万年近く経つと、インド占星術で「牡羊宮」といえば、西洋占星術では「天秤宮」のことになります。正反対のサイン(宮)名で呼び合うようになるのです。
現在の春分点の位置 ◆ (2010年+170年)÷約72年=30.2777度。宝瓶宮(春分点の起点からみて水瓶宮)の0.2777度ほどの位置。サイン(宮)と星座(Constellation)は異なるので、空の星座でいえば、うお座〜みずがめ座付近にあたります。


●二元論の始祖=プラトン

ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年〜紀元前347年)は、この世界を「見える世界」と見えない「イデアの世界」から成り立っているとする二元論の始祖として有名です。
人間も霊と肉からなっているとして、「死骸となった肉体は死者の影のようなものであり、真の自己は不死なる魂である」と述べています。
この二元論は、後の西洋思想にも、キリスト教にも、西洋占星術の解釈にも大きな影響を与えていきました。
それは双魚宮時代の対立二元論と共鳴する考えでもあったからです。

《 時代の最先端科学だった古典占星学 》

最後に、最も重要なことは、皆様もよくご存じのソクラテスやプラトンといった先哲の宇宙観や世界観が占星学の解釈、すなわちホロスコープの解釈の中に色濃く取り入れられていったことです。
その結果、12サイン(宮)もそれぞれに哲理的な解釈に基づく意味(象意)を持ち、個人の性格や森羅万象に当てはめられました。
その代表例が、火・地・風・水といった古代ギリシャの世界観に基づくサイン(宮)の四元素分類です。これは他のページなどで何度か述べたとおりです。
他にも、牡羊宮から順番に12サイン(宮)が人体の頭部から足にまで当てはめられて解釈されていきました。
当時、ギリシャに発生したフィロソフィー(愛智=哲学)にとって、カルデア人がもたらした占星学(天体学=Astrology)は、格好の題材であり、また占星学とフィロソフィーは、相乗的に宇宙(世界)と人との科学的真理を探究し、哲学し、解明していく最先端の存在だったのです。
一方、古代オリエントの占星学にとっても、それは新しい科学的・哲学的展開であり、「古典占星学」への力強いステップアップになりました。
ここで、「古典占星術」ではなく「古典占星学」としているのは、後年ローマにおいて占術的要素が濃くなって古典占星術となっていくものの、この時代はまだ科学的要素のほうが強かったからです。
ちなみに、この時代の科学は、今日のような物理法則に基づく科学ではなく、哲学を伴った擬似科学であることをご了承ください。それは古典占星学も例外ではありません。
科学文明が高度に発達した今日からは考えられないことですが、当時の古典占星学は今日の西洋占星術のような「占い」ではなく、実際の生活に役立つ「実学」であり、当時、最高レベルの天体学(Astrology)「最先端科学」だったのです。
ちなみに、ガリレオやニュートンらによる現代科学が始まって以降、それを「科学」だと信じる人はいません。
いえ、近年、一部の西洋占星術者が「西洋占星術は科学」だと強弁するのを見聞きしたことがあります。
皆様は古代ギリシャの「最先端科学」が、もはや「占い」だと分かりますよね?

One-Point ◆ 古代ギリシャには「地動説」がありました。どこまで一般的だったかはともかく、彼らの世界観や宇宙観に一役買っていたのは事実でしょう。後年、キリスト教による、神がこの地上世界を創ったと固く信じる「天動説」信仰によって、「地動説」は異端として排斥されました。しかし、占星学(Astrology)は、地上から見た星の動きと配置を用いても、天動説ではなく地動説の立場であることが正しいのです。


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